苦い蜜 前編
月に一度、時によっては二、三度、久世行久は秀一の元に顔を出す。
必ず。
約束することを忘れたことは一度もない。だからこそ、秀一はどうしようもない気持ちに駆られる。
どうしても、最後の一歩が、出なかった。
大学を卒業して、今年で三年目。
いつの間にか立派に大人と呼ばれるような歳になってしまっていて、自分で言うのも何だが、実感に乏しい、というのが正直なところだった。
けれどそれでも、着実に自分の中で変わっていくものに秀一は気付いていたし、それこそが自分の望んでいることであるから、傷だらけで辛くても落ち着いて経過を眺めることができていた。
それなのに行久が毎月顔を出すから、傷が塞がりきらずに膿んでしまう。
彼が気にかけてくれるのは嬉しいけれど、しかしそれは同時に秀一にとってとても息苦しいものだった。
行久は決まって一週間前に電話をかけてきた。
そして、
「来週、遊びに行ってもいいか」
と聞いてくる。
今年の春先に家を出た秀一を慮ってのことだということは言われなくてもわかっている。
ようやく日本に腰を落ち着けた母親の多佳子が父親の雅史と出来るだけ多くの時間を過ごせるようにと、家族に代わってわざわざ幼なじみの行久が様子見を買って出ているのだ。
双子の兄の優哉は相変わらず音の渦の中で生活しているらしい。
最近は作曲したり、曲を頭の中のイメージに近づけるために試行錯誤したりするに多くの時間を割いていて、しかも最近はCDを出すための準備で忙しいらしい。
優哉とは一番まめに連絡を取っているものの、特に大事がないならそれでいい、と優哉が会いに来ることはなかった。その代わりに、テレビ電話機能の付いた携帯電話に変えろと散々うるさく言われているけれど。
そんなだから行久が家族を代表して、秀一が元気にやっているかを見に来る。
今日も行久は休日の土曜日だというのに、わざわざ秀一の部屋を訪ねてきていた。
「最近仕事はどうだ?」
三月に家を出てから既に半年近くが経っていたが、毎回会う度に行久は同じ質問をする。
互いにこれ以外の会話の糸口を見つけることができなかった、と言うのが正しいのだろう。
家が隣同士ではなくなったというだけで、二人の関係性自体は全然変わらないのに距離感だけが微妙に変化した。すぐに昔からの幼なじみの会話に戻るものの、顔を合わせて少しの間はどことなくぎくしゃくした空気が流れ、会話の始めだけはどうしても気まずかった。
「それにしても相変わらず料理がうまいな」
手近な瓶からグラスにビールを移しながら、行久は皿に盛られた唐揚げをつまんだ。
「そう言ってもらえてよかった。一人だとかえってまともな料理は作らないんだよな。平日は朝飯に簡単なの作るくらいで、後は外食とか惣菜屋で買うとか。せいぜいが土日の気の向いたときに作る程度だ」
「そんなもんか」
まだ実家にいる行久にはあまりぴんとこないようだった。そういう秀一自身も実際に一人暮しをするまでは、平日にまともな料理を作ることがこんなに面倒臭いことだとは知らなかった。
「じゃあいつも悪いな。イチに料理作らせて」
「別に行久が気にすることじゃないよ。俺も週に一回くらいは手の込んだもの作りたくなるし。単に料理が好きだから、だと思うんだけど」
「そうか」
行久は少しだけ安心したような顔をして、またビールに口をつけた。久しぶりに「イチ」と呼ばれたことにどきりとして、秀一は目を伏せた。
料理を始めたのは、多佳子が優哉と共に家を空けることが多くなったことがきっかけだったけれど、本当はずっと前から興味を持っていた。
その好奇心が膨らんで、初めて料理をしたのは高校生の頃だった。
元々、秀一も優哉と一緒にピアノを習い始めた。自分では覚えていないけれど多佳子の意向で五歳の時に習い始めて、初めは二人とも楽しそうに弾いていたらしい。
確かに小学生の頃までは楽しかった。楽譜に書いてあるものをそのままに表現していくのは面白くもあり、また、ピアノを弾けるということ自体も秀一にとっても楽しいことだった。
変化が訪れたのは中学生になった頃だった。ピアノを弾くことは自分にとって当たり前のことだったけれど、ただそれだけだった。ピアノは秀一にとっての「特別」では、なかった。
秀一は譜面に書かれていることに忠実に従うことはできたけれど、ピアノの先生が言うようにそこに自分の感情をのせることはできなかった。
「例えばここは楽しそうに。気分が浮き立つように」
そう言われても、その部分が楽しそうだと感じることはできなかったし、楽しそうな表情が出るように弾こうと思っても、それを表現することはできなかったように思う。秀一には譜面を忠実に写し取ることしかできなかった。
対照的に、優哉は自分の感情を表現するのがとてもうまかった。楽しそうに弾けと言われれば彼はその通りに弾き、それを聴く秀一も楽しい気分になった。
それはちょっとした差だったけれど、同時に決定的な差だった。
その頃から優哉は本格的にピアノのレッスンを受けるようになり、プロを意識するようになり始めた。その一方で、秀一は中学卒業を機にピアノを弾くことを止めた。
高校に入って優哉はますます研ぎ澄まされた音を出すようになり、秀一の心を打った。
優哉はどんどん前に進んでいく。自分だけの特別を手に入れて、それを磨くことに集中していた。
それを側で見ている秀一は、もしかしたら妬ましく思っていたのかもしれない。
そして行久のことを意識し始めた頃には、優哉のように自分にも何か特別なものが欲しいと強く思うようになっていた。
だから秀一は料理を始めた。
自分が自信を持って他人に見せられるものを、何か一つでもいいから作りたかったから。
優哉、行久、秀一の3人が大学に進学してからは、生活のために必要だったから料理をやるようになったけれど、料理は秀一の心を満たしてくれた。作れば家族はもちろんのこと、行久も喜んでくれた。
自分の特別を見出せた気がしていた。
自信を、手に入れられたような気がしていた。
大学生の暇なうちに様々な料理を作ったし、レシピ通りに作ることは自分に向いていたようで、作ること自体は苦にならなかった。
ようやく、優哉と同じ位置に立てたような、そんな気分で秀一は嬉しかった。
だから行久が心配するようなことは何もない。秀一は本当に料理が好きだから、同じように好きだった行久のために料理を作ることはどうということでもなかった。
そう、料理を作ること自体は、問題じゃない。
でも。
行久と同じ時を過ごすのは、今は辛かった。
大学在学中から少しずつ自分の気持ちを終わらせて、あともう一押しで行久への気持ちを完全に切り離せそうなところまで来ているのに。
どうしてわざわざ秀一の顔を見に来るのか。
頼むから、これ以上自分の気持ちを揺さぶらないでほしい。これじゃあ、何のために一人暮らしを始めたのかわからない。
お願いだから、もう忘れさせてほしい。
テーブルを挟んで正面にいる行久にわからないように、そっと瞳を閉じた。
秀一は行久への思いを断ち切る最後の一押しに、と実家を出た。物理的に距離を置けば、単なる幼なじみに戻れると思っていた。
実際、以前のように暗い思いにとらわれることも減った。このままずっと会わないでいれば、気持ちを忘れられると思った。
なのに。どうして。なんで行久は秀一に会いに来るのだろう。
来られても、辛いだけなのだ。本当に、辛いのだ。
これ以上、思い出させないでほしい。
自分の中にある暗い気持ちと浅ましい欲望が吹き返してしまいそうで、秀一は怖かった。それを行久に知られるのも怖い。だから、それら全てを自分の中で消化できるまでは、そっとしておいてほしかった。
たとえそれが、秀一の家族を代表して様子を見に来ているのであっても、本当は行久には会いたくなかった。
欲望が、噴出しそうで。
そんな自分を押し隠すために、秀一は行久に話題を振った。
「ユウは元気? 生きてることはメールとかで知ってるけど、ちゃんとした生活してるの?」
「うーん、どうだろうな。最近は、ほら、CD出すって言ってただろ? そのせいか防音室にこもって何かやってるみたいだけど。俺もあんまり家にいる時間長くないから、詳しくは知らないけど……」
「そう……」
とりあえず家には多佳子がいるから食事を摂らないということはないだろう。
それにしても、行久は優哉と付き合ってるのに、恋人の生活状況も把握していないのだろうか。
疑問に思ったけれど、優哉の忙しさと行久の会社勤めの現実を考えれば、二人があまり会っていないことも納得できた。それでもまだ二人の仲は続いているに違いない。
秀一は酔ったこともあいまって思考の渦に入り込んでしまいそうな自分に気が付いて、また話題を無理矢理に変えた。
「そうだ。デザートも作ったんだ。レアチーズケーキなんだけど、食べるだろう?」
「食う食う」
秀一の部屋で飲み始めてから大分時間が経ち、料理もあらかた食べつくしてしまっていた。
行久の手を借りつつ空いた皿をまとめてキッチンへ運ぶ。皿を水につけて、冷蔵庫からチーズケーキののった皿を取り出した。それを切り分けてそれぞれの皿に盛り付けて、再びテーブルに戻った。
そのまま、世間話のような話をしながらケーキをつまんではワインを傾けた。そうするうちに妙に眠くなってくる。
行久が遊びに来た時はいつもそうだ。
デザートを食べている辺りでそれまでの酒が回るのか、急に眠くなって動きたくなくなる。
たしかに二人とも酒に弱い方ではないから、長時間飲めば相当量のアルコールを摂取しているのはずだ。それでもこんな風に眠くなるのは、何だかおかしいと思う。でも、外で飲むのとは違って自分の部屋だし、相手が幼なじみの行久だから、気が緩んでいるのかもしれないとも思う。
そんなことを考えているうちにあまりの眠さに目を開けていられなくなる。このまま眠ってしまいたいと、身体が舟をこぎ始める。
それに気付いたのか、行久が声をかけてきた。
「眠いのか?」
「うん、なんか、もう……」
必死で意識を保とうとするものの、その努力を嘲笑うかのように眠気が体を支配する。起きていたいと思うのに、視界が薄れていく。
「ごめん……もうダメだ……」
もう起きていられない。
秀一は体が求めるままに横になって、目を閉じた。
「……イチ?」
向かいの行久が立ち上がる気配がした。
「秀一」
すごく近くで独白に近い小さな声が聞こえたけれど、秀一は暗闇に落ちていくことに抗えなかった。
頭の中で警報のように鳴る。
『浅ましい欲望が噴き出しそうで恐い』
掻き消そうとすればするほど警報の音は大きくなり、秀一の臆病な心は縮こまっていく。
覚えのある恐怖感だった。
そこで秀一は唐突にこれが夢だと気がついて、ほっとした。
これは過去の自分を映し出しているに違いない。だから、恐れることはないのだ。
そう思うと安心して、秀一は再び闇に落ちていった。
秀一がその感情をはっきりと感じたのは、ちょうど成人した辺りだった。
行久と別の大学に入って、二人の間にわずかな距離ができて二年ほどした頃。それは唐突にやってきた。
きっかけが何だったかなんて、わからない。ただ、突然にそれを意識した。
『行久に触れたい』
それは明らかに性的なものを含んでいて、秀一は怯えた。
同じ男である行久に触れたい、抱かれたいと思うなんて、いくら好きであってもおかしい。自分は遂に壊れてしまったんじゃないか。そんな思いが拭えなかった。
とにかくこんな底の見えない欲望を知られてはいけないと、必死になって平静を装った。それは理性と欲望の闘いで、秀一を疲弊させた。
それも大学三年に進級する頃には一応の落ち着きを見せたものの、秀一の中に新たな暗い気持ちを残していた。そんなとき、大学のゼミの先輩である村野竜琉<むらのたつる>に出会ったのだ。
学年が一つ上の村野は、総称して「変な人」だ。
初めて会ったときに、ゼミのメンバーの目前で秀一に
「俺と付き合わない?」
と言ったことからして、どこか常識外れなところのある人間だった。
ところが村野の「俺と付き合おう」発言は一般的に言う「お気に入り」宣言に相当するもので、実際には、村野には同性と付き合うような性癖はなく、その実体は大学入学当時から付き合っている彼女を大切にしている男だった。
もっとも、秀一や同期のゼミのメンバーがその事実を知ったのは村野の衝撃の発言から四ヶ月も後のことで、その間、同性の行久を好きでいるという事実から多少びくびくしながら大学に通っていた秀一の精神的苦痛を十倍にして返してやりたいと、今でも密かに思うくらいには村野を恨んでいる。
それでも、秀一を可愛がってくれた村野は秀一の暗い部分に気付き、唯一と言ってよいほどの相談相手になってくれた。
その点では感謝していたりもする。そんなことを本人に言ったらつけあがるのが目に見えているから、絶対に教えてやらないけれど。
その村野は、段々と沈んでいく秀一に気付いていた。
あれは秀一が大学四年の秋口だった。ゼミのOB会で久しぶりに村野に会った。
『滝崎、俺と付き合おうぜー』
村野はいつもの挨拶を何のてらいもなく口にしながら秀一の肩に腕を回し、堀ごたつ風の座敷に腰を降ろした。
そのまま二人で近況報告やらくだらない話をして一心地ついたところで、村野は吸っていた煙草を灰皿に押し付けて火を消した。そして秀一の肩に置いたままの手に力を入れて顔を近づけた。
『で、滝崎<たきざき>君は最近どうなのよ、彼とは』
「彼」という言葉に秀一の体が反応したことには触れず、村野は続ける。
『お前、相変わらず、というより今の方がひどいか。憂鬱そうな陰気な顔してるぜ。事情を知ってる身としては何か役に立ってやろうかと思ってよ』
『陰気な顔って……。そんなにひどいですか?』
『それなりにな』
自覚がなかっただけに秀一は驚いた。
『何かあったんだろ?』
こういうことに関しては、村野はやたらと鼻が利く。普段は人の顔色など気にしないくせに、こういうときだけ敏感なのには、参る。
『……本当に、何もないです。行久とは相変わらずですよ。ただ……、少しずつ気持ちを終わらせようとしてるだけです』
想い続けてもどうなるわけでもないと知っているから。
せめて行久に知られないうちに、自分の中にある浅ましい感情に気付かれる前に、ひっそりとこの気持ちを殺して、気兼ねなくただの幼なじみとして付き合えるようになるために。
だから、少しずつ消そうと決めたのだ。
『それでいいのか』
聞いてくる村野の硬い声に、秀一は声が震えてしまいそうな気がしてただ頷いた。
『……そうか』
一度目を閉じた村野は唐突に話を変えた。
『ところで、お前にさ、紹介したい人がいるんだけど』
いきなりのことに胡散臭そうな目で見ると、『そんな目で見るなよ。別に怪しい斡旋じゃないんだから』と慌てて言葉を足した。
『本当に変な人じゃないから安心しろよ。ま、一度会ってみろや』
村野は穏やかに笑って見せて、勝手にその話を打ち切った。
それから一ヶ月後の十月の半ば、秀一は村野の仲介で二科紗<にしなすず>と顔を合わせた。
二科は美しいという形容がぴたりと当て嵌まる男だった。
肌の色は陶器のようなというわけではないけれど、健康的な薄ピンク色を透かせた白さ。形の良い小さな顔に、目鼻立ちははっきりしていて、切れ長の瞳は涼しげな印象を与える。そこに明るめの色の髪がさらさらと細い首に沿って薄く流れると、何とも言えない艶が見え隠れした。
背は秀一と同じくらいだったけれど、同じ男とは思えなかった。それくらい綺麗な人間だった。
秀一はその二科と、初めて会ったその日に、寝た。
秀一の心を見透かしたような二科の言葉の数々は誘っているような響きを持っていて、まるで悪い魔法をかけられているかのように意思が薄れていくようだった。
二人の間には明らかに濃密な空気が流れて、秀一はたしかに二科に理解と慰め、そして気持ちの解放を期待していた。そして二科はそれに応えた。
『馬鹿だね。報われないとわかっているのにただ一人を想い続けるなんて。自ら進んで底無し沼に入るようなものだよ。とても馬鹿で愚かだ。……でも僕はそういう愚かさは嫌いじゃない』
痛々しいね。
そうとだけ言って、二科は待ち合わせに使ったバーから秀一を連れて出してホテルに入った。ベッドに座らされ二科に口付けられても、秀一は抵抗しなかった。全て自分で決めたことだった。
『んっ……』
初めての口付けの相手が二科だと思うと、妙に気分が高揚した。
こんな綺麗な男なら、好きな人でなくてもそんなに気持ち悪くなかった。どこか中性的な雰囲気にも見えるからかもしれなかった。男ほど雄臭くなくて、女のようにかわいくもない。それがかえって心地良さに拍車をかけているのだろうか。
どちらにしろ、心地良かった。
二科の舌がどんどんと秀一の口内を侵していく。上顎をなぞられると、ぞくぞくとした感覚が首筋を伝っていった。ぬるりとした感触は不思議な生き物のように、縦横無尽に動き回る。
もう、手も足も、使い物にならない。
初めての快感に絡めとられて、縋り付くように二科の服に触れているので精一杯だった。
『本当に馬鹿だよ。想い続けるほど心は弱って、最後には命までも吸い取られていく』
服が剥ぎ取られていく。
とても頼りない気分になった。
二科の手は秀一よりも温かく、肌にじんわりと熱が移ってくる。
それは心地良くもあり、それでいてどうしようもなく秀一を落ち着かなくさせた。肌が触れると、そこから不穏な空気が這い上がってきて、さらに秀一の体の自由を奪う。
何も、自分の思う通りにはならない。二科に弄ばれるように、応えるだけ。
『なん……い、いやだ。熱い……手……』
『いい子だから』
多分、本当に嫌だったわけじゃない。ただ、どうしようもなく恥ずかしくて、どうしようもなくなるのが情けなくて、それでも何も諦められずにいる自分がいて。
それをどうにかしてしまいたかった。一時でいいから、忘れたかった。何もかもを。
それを二科に求めるのは間違いかもしれなかったけれど、二科が応えてくれたからどうしようもない。もうこのまま甘えてしまいたかった。
『辛いんだろう?』
楽にしてあげようと言って、二科は言葉通り優しく秀一の体を満たしてくれた。熱くて、痛くて、でも気持ちよくて、秀一はそれに溺れそうになった。
『あ……あ……、んっ』
二科はどこまでも優しい。揺らされるたびに声が意思とは関係なく漏れ出す。それが部屋に響くのも秀一の羞恥心を煽って、もうどこにでもいいから隠れてしまいたい気持ちになる。
なのに二科は許してはくれず、笑って『逃げたらだめだよ』と囁いてきて、まるで秀一の体だけじゃなくて心を食い荒らすように侵入してきた。
『僕を気休めにして、ほんの少しの休息を手に入れればいい』
『ん……にし……な……さん』
合間に囁かれる二科の言葉はまるで秀一の心を知っているようで、もしかしたら二科も同じような思いをしたことがあるのだろうかと思った。
揺さぶられながら聞いてみたい気持ちに駆られたけれど、どこか痛みを透かしたような表情に聞いてはいけないような気がして、触れないようにと疑問は心にしまった。
本当に、二科はずっと優しかった。
まるで傷ついたもの同士の慰めあいのような、温かな時間だった。
それ以来、二科とはたまに会う仲になった。