清想空

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open05.04.12
苦い蜜 後編
ぱちり、と目が覚めた。
外で鳴く鳥の声に刺激されたのか、すーっと意識が戻ってきて、とても心地の良い目覚めだった。
「あれ?」
周りは明らかに朝だと示すように、カーテン越しでも日の光で明るくなっていた。
朝になっている上に、ベッドの中にいる自分にどうも何かがおかしいような気がして、ようやく秀一は行久と飲んでいたことを思い出した。
慌てて起き上がると、近くのクッション型のソファを下にして何もかけずに床で寝ている行久が目に入った。
広めの1Kだからこそ、ベッドを入れて、ちょうどいい大きさのガラステーブルを入れても、なお男一人が床に寝られるだけのスペースを十分に確保できる。普通の1Kよりも少し家賃が高いけれど、こういう点ではこの部屋にして良かったと思う。
もっとも、誰かが泊まることを想定してこの部屋を借りたわけではないのだったけれど。
それにしても。どうやら秀一はまたやってしまったようだった。
そのことを考えるだけで、二日酔いでもないのに頭が痛くなりそうだ。
どうしてこうなるんだ、と思いつつ、行久を起こさないようにそっと起きだした。
キッチンをのぞくと昨日水に漬けっぱなしで放置した食器類は綺麗になくなっていた。行久が洗ってくれたのだろう。
毎度のことながら、様子見とはいえ一応客にあたる行久を放って寝てしまい、ベッドに寝かしてもらって、皿まで洗ってもらうなんて、どうかしてるとしか思えない。しかも、行久自身は床で寝ているのだ。
自分のことが信じられなくなりそうだ。
毎回謝る度に、行久は気にするなと言ってくれる。でも、気にならない人間がいるはずはない。
そりゃあ、まあ、料理を作ったのが秀一なら、食器を片付けることくらい行久がやってもいいとは思うけれど。それでもこの状況はおかしいだろう、と思う。
「はあぁー」
盛大にため息をついて、秀一は一度ベッドに戻って毛布を取り、行久にかけてやる。そのついでにしゃがみこんで顔にかかっている前髪を静かに払った。
行久を放って寝てしまうのは悪いと思うけれど、眠っている行久を見られるのは少しだけ嬉しかった。
起きている行久だと、早く忘れたいと思う気持ちと、何かを悟られるんじゃないかという辛い気持ちがごちゃ混ぜになって襲ってくるけど、眠っている行久は静けさそのもので、秀一の中に波を起こさない。だから、それを静かに見ているのが好きだった。ほんの少しだけ、心が和むから。
矛盾だらけだな、と自分の心を嘲笑って、秀一は行久を起こさないようにクローゼットから服を取り出して、風呂場へと移動した。
酒の匂いを早く体から流してしまおう。そして、清々しい気持ちで行久と朝食を摂って、またいつものように別れるのだ。
そういえば、と熱い湯を浴びながら思い出す。
行久は初めてここに来た時から、いつも泊まっていく。そんなに実家が遠いわけじゃないし、終電だってそんなに早くないのに、いつも泊まっていく。
帰るのが面倒くさいから、と言っているけれど、寝こけている秀一など放ってさっさと帰ってしまってもいいと思うのも事実だった。
だって、客用の布団なんてないから、今日みたいに柔らかいビーズクッションソファーを下敷きに床に寝るしかないのだ。それで体が本当に休まるわけがない。
それだったら面倒くさくても家に帰って自分のベッドで寝る方がよっぽどいいに決まっている。
一体何を考えてるんだか。
でも、行久が何を考えてるかなんて、いつもわからないんだけどさ。
自嘲の笑みを浮かべて、秀一はシャワーを止めた。
 
 
 
それからも月に一度は必ず顔を出す行久との苦い苦い逢瀬は続いた。
そして、そのたびに傷口が膿を孕み、強烈な痛みを訴えた。
それは無視するにはあまりに痛くて、秀一は時を追うごとに逃げ出したいような気持ちに駆られた。
 
 
 
年が明けて、年始のぼけた頭をフル回転させながら年末年始の休みでストップしていた仕事の処理をしていたら、直属の上司の佐和<さわ>から声がかかった。
久しぶりに実家に帰ったせいでゆるんだ気持ちが漏れ出していたのだろうか。もしかしてそれをあからさまに注意されるのだろうかと身構えたけれど、よくよく考えてみれば、佐和はそんなことで呼び出したりするような人ではなかった。
むしろ、休み呆けも徐々に払っていってくれよ、と暢気に笑って場を和ませようとするタイプで、秀一のようにまだまだ若い社員に人気のある人だ。
じゃあ、何の話だろう。
首をひねりながら誘われるまま、人気のない自販コーナーの休憩用のソファに腰掛けた。
佐和も自販機で缶コーヒーを買って、それから秀一から一つ空けて座った。
「どうしたんですか、佐和さん」
佐和は迷うような仕草を見せた後、缶コーヒーを開けて一口飲んだ。
「滝崎、大阪に行ってくれないか」
「え?」
思わず間抜けな声しか出なくて、慌てて秀一は口を手で覆った。
「大阪、ですか?」
「実はな、大阪の支社の方で欠員、というか、一人、病気療養の名目で今度長期休暇に入るやつがいるんだが、大阪の方は大阪の方で今人手が足りなくてな。あっちでそいつがやってた仕事の穴を埋められそうにないんだ。年が明けたばかりで中途半端といえば中途半端な時期だし、今から新しく人を雇ったんじゃあ今すぐに使い物にならんだろう。そこで、東京の方から一人寄越してくれ、と言われててな。とりあえず仕事の内容がほとんど一緒だから、うちから一人送ろうってことになったんだが、問題は誰を行かせるかってことでな」
「それで、俺ですか?」
「まだ正式に決まったわけじゃないんだ。一応全員の都合を聞いているんだが、滝崎が一番いいんじゃないかって意見もあってなー。一応、向こうでのことが一段落したらこっちに戻ってきてもらうことになるから、既婚者じゃない身軽なやつがいいだろう。何か特別な事情があって東京を離れられないと言うなら、それで構わないんだが、滝崎、どうだ」
「別に……特別な事情とかは……ないですけど……」
わかっている。一応意見を伺う形をとっているけれど、意図としてはもうほとんど秀一に決まっているということなのだ。
はっきり言ってしまえば、断る余地はほとんど残されていない。余程の事情がない限りは、大阪に行くことになる。
「……行くとしたら、いつからの配属になるんでしょう」
行くのが嫌なわけじゃない。ただ、即決するには、まだ迷いがあった。
佐和もそれくらいはわかっているのだろう。迷う素振りの秀一に押し付けるようなことはしない。
「正式の赴任は四月からになるな。ただ、双方の引継ぎもあるし、年度末の問題も絡むから、それよりは早く行ってもらうことになるだろう。そうだな、向こうに慣れる意味を込めてどんなに遅くても三月の半ばまでには行ってもらうことになる」
「そうですか」
そうなると、今自分が引き受けている仕事を誰かに引き継がなければならないし、引越しの問題もある。
でも、三月の頭までにそれを終わらせるのならば、無理はないし、ちょうどいいくらいだろう。早目に向こうに行って仕事に慣れておくのもいいかもしれにない。
頭の中でざっと、これからのスケジュールを考えて、はっとした。
これはいい機会かもしれない。
行久との離別の最後の一手として、利用できるかもしれない。いや、利用できる。
今以上に、簡単に会えないほどの距離が行久との間にできれば、今度こそきっぱりと、この気持ちを断ち切れる。きっと、そうできる。辛い、辛い行久との逢瀬を終わらせることができる。
ずっと袋小路に追い詰められたような行き詰った行久との関係に、光が差し込んだような気がした。
これを活かさない手はない、と秀一は自分の中にあったほんの少しの迷いを振り切った。
「佐和さん、俺、大阪に行きます」
はっきりと視線を据えて答えた。
佐和はどこか済まなさそうな顔をして
「そうかあ」
と言って、それからがしがしと頭を掻いた。
「こっちだって人が減ると大変なんだけどなあ。こればっかりはしようがないな。悪いけど、頼むわ。細かいことについては早ければ今月の半ば頃には伝えられると思う。お前の後任の件についてもその時に決めるとしよう」
佐和は残りのコーヒーを飲み干すと、立ち上がって缶をゴミ箱に捨てた。
「じゃあ、頼むな」
「はい」
「よし、仕事に戻っていいぞー」
佐和はそのまま秀一に背を向けて去っていった。
佐和は戻っていいと言ったけれど、なんとなくすぐには仕事に取り掛かれる気がしなくて、秀一はその場に残った。
いきなりの急展開に、わかっているようでいて頭が完全に理解できていない気がする。自分で決めたことなのに、まだ現実味がなかった。
何とも言えないふわふわとした気分を吹き飛ばそうと思って、何か飲もうと思ったけれど、財布は持ってきていなかった。
取りに戻ろうかと考えているうちに、そういえば、と何かの時のためにポケットに忍ばせている小銭の存在を思い出した。それを使って、ホットのカップコーヒーを買った。
誰もいないコーナーのソファに腰掛けて、口をつける。熱すぎるくらいのコーヒーが胃に落ちると、妙に気分が落ち着いた。
これで、ようやく終わりにできる。
そう思うと、ホットコーヒーの効果もあって、ひどく安心した。
もう苦しい想いは、終わる。
ここまで来るのに何年かかっているんだ、と沈む気持ちがなくもない。それでもやっと終わりにできると思うと、蝕まれた心が少しだけ軽くなった。
転んでもただでは起きない自分にちょっと強欲すぎるだろうかとも思う。それでも一縷の光明を見出すとはこのことかと考えて、秀一は薄く笑った。
 
 
 
秀一はスツールから降りた。
隣の二科が帰るのかと声をかけてくるので、ええとだけ返した。
するとこれから言おうと思っていたことを二科が先に口にした。
「秀一君、大阪に行くんだって?」
「あれ、どこから聞いたんですか、そんな話」
「村野の馬鹿だよ。水臭いな、あの馬鹿には教えて、僕には教えてくれないなんて」
隣のスツールに腰掛けたままの二科はちらり、と視線を送ってくる。不機嫌を装った表情は少しだけ子供じみていて可愛らしい。
「やだなあ、何のために今日会ってると思うんですか。今日話すつもりだったんですよ」
「本当に?」
「嘘ついてどうするんですか。本当ですよ」
「でも、もう帰るって時だよ?」
「それは、最後に話そうかな、と思っていたからです」
「ふうん」
目を細められると、誘われているんじゃないかと思ってしまうほどの色気が出る二科の魅力は、こういう薄暗いバーではより強調されて見える。
これに惑わされた人間は少なくないだろうと思うと、そういう意味では村野や、初めはともかく今は二科と健全な付き合いをしている自分という存在は希少かもしれない。
そしてそれが二科にとっても心地良いものなのかもしれない。たいていの人間は二科に引きずられるから。
「で、行くんだね? 大阪に」
「もう決まってますから。会社からの辞令みたいなものですからね」
「あ、そうなの?」
「そうですよ。会社の事情で大阪に飛ばされるんです。でも、数年で戻ってこられるみたいですけど」
「なんだ。行ったきりじゃないんだ?」
「みたいです。でもいつ帰ってこれるかは俺自身にはわかりませんが。一応、一時的に向こうで戦線離脱する人の代わりをするということなんですけど、その人が元の所に帰ってこれるかもわからないし、その時俺がどういう立場にいるのかも皆目見当がつかないので、はっきり言って先の予定はまったくわからないんです。なので、いつ帰ってくるのかは不明」
「そう」
「ええ」
二科はじっと秀一を見ながら、立ったままの秀一の肩に手を回して身体を近付けた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。今までも短い間でしたけど一人で生活してましたし、そりゃあ、二科さんに会えなくなるのは寂しいですけど」
「言ってくれるね。嬉しいよ」
満面の笑みを浮かべた二科は、けれどどこか浮かない顔をした。
「でもね、僕が聞きたいのはそんなことじゃない。行久君とのことだよ。秀一君は大丈夫なの?」
そういう意味では僕がいなくても大丈夫なのかとも思うけどね、心配なんだよ、と二科は付け加えることも忘れない。
そうして二科が心配してくれるのは本当に嬉しかった。
けれど、もう、秀一は決めたのだ。これで終わりにすると。今度こそ、忘れるんだと。いや、ずっと忘れたいと思っていたから、この機会にそれを完全に遂行するんだ、と。
「大丈夫です。今度こそ、終わりにしますから」
笑って答えると、二科はあっけにとられたような顔をして、それから、そうかとだけ言った。
「なんだかんだ言って、秀一君の方が強いね」
諦めたような、悲しいような、そんな顔をして二科は手元の酒を飲んだ。
間近で見る二科の顔は美しいけれど、どこか完璧ではなかった。何か、もっと魅力的なものが欠けているような、そんなことを思わせる美しさだった。
二科の言ったことは何だったのだろうかと気になるけれど、初めに会った時のように聞いてはいけないような気がして、結局は何も聞けなかった。二科も話す気はないのだろう。
きっと一人で抱えて、一人で傷ついて、でも誰にも助けを求めないで、自己完結するのだろう。
それがどんなに痛いことかわかるのに、秀一は力になれない。力になりたくてもそうさせてもらえないことに歯がゆさを感じるけれど、二科にその気がなければどうしようもない。諦めるしかなかった。
「……そんなことはないと思いますけどね。結局は逃げてるだけ、かも」
「それでも。動いていける君は、すごいと思うんだよ」
僕は、動けずにいる。
言外に告げて微笑む二科には影があって美しい。儚くて、壊れてしまいそうで。とても綺麗だ。
でも、早く、そんな顔をしないようになってほしい。美しくても、二科は苦しそうで、見ている方が辛い。
「そうですか? 俺は二科さんも十分すごいと思います。最初の時なんか……」
「もーう、その話はいいよ。僕がテクニシャンだってことは、僕と君だけの秘密にしておいて。僕は普段は抱く側じゃないから、そんなこと知ったら皆が悲しむでしょ。君だけが知っていればいいんだよ」
「はは、わかりましたー」
おどけて返すと、ようやく二科も笑った。
「それで、いつ大阪に行くの?」
「明後日です」
「は?」
「明後日です」
二科は信じられないというような顔をした。
「二日前にこんなところにいていいの?」
「色んな人に送別会開いてもらったりしましたけどね、やっぱ、最後は二科さんで締めないと。見納めは二科さんで」
「言うねえ」
「でもね。行久には大阪行きの話はしてないんです。家族にも俺が向こうに行くまでは言うなって口止めしました」
「本気で?」
「本気ですよ。諦めるために大阪に行くんですからね。俺が向こうに行ってしまってから知るので十分ですよ。あいつには……優哉もいるし、問題ないでしょう」
「そっか」
本気なんだよね。
言われて頷くと、二科はいきなり秀一の首の後ろに手を当てて、唇を近づけた。
「ちょっと……二科……さん?」
「しばらく会えなくなるから」
そのまま秀一に抗えないようにさせて、本気でキスを仕掛けてきた。人の目もあるというのに深く唇を合わせて、舌まで潜り込ませてくる。
こんな風に二科に触れるのは最初の時以来だった。
「ん……」
まったく何考えてるんですか。
文句を言おうとしても、二科のキスを気持ちよく感じた自分と、すぐそこにある少しだけ濡れた瞳に行き当たって、馬鹿らしくて言う気になれなかった。
「餞別。帰ってきた時には土産よろしく。あと、たまに遊びに行くから、その時は相手しろよ」
ぺろりと秀一の唇を舐めて、ようやく満足したのか二科は顔を離した。
「わかりました。ありがたく餞別を受けておきます。じゃあ、そろそろ俺は帰りますね」
「ああ。向こうでも身体壊さない程度にがんばれよ」
「はい」
「無理するなよ。じゃあ、またな」
二科の言葉に背中を押されるように、秀一は通い慣れたバーを後にした。
 
 
 
二日後。
優哉が落ち着かなさそうな顔をして、秀一の肩にもたれかかってきた。
目の前には五分後に発車する新幹線があるのに、優哉は秀一から離れたがらない。
「なあ、シュウ、本当に行くのか?」
今更になって優哉は揺らいでいるらしかった。
別に優哉がどこかに行ってしまうわけでもないのに、不安がっているようだった。実際に新天地で生活を始めるのは秀一の方だというのに。
「何言ってるんだよ。新幹線で二時間半くらいだろ。会おうと思えば会えるんだから、そんな顔するなよ」
「でもさ、……なんか、こんなに離れたことないから、不安っつーか、……なあ、本当に大丈夫か?」
あまりに子供っぽいことを言うので、思わず秀一は笑ってしまった。同じ顔で甘え上手の優哉を放っておくことができない自分も十分甘いと思う。
「大丈夫だよ。あんまり心配しすぎてCDの出来が悪くなっても知らねーぞ」
「うっせー」
むっとした顔になったけれど、優哉はようやく笑った。
「じゃあ、行ってこいよ。たまには、帰ってこいよ?」
「……ああ。じゃあな」
最後に軽く抱き合って、優哉と別れた。
優哉は秀一が新幹線に乗り込むのを見て、発車する前にホームから去っていった。階段を降りて行く優哉の姿を見送って、秀一は指定席へと向かった。
席に着くと発車ベルが鳴り出してドアが閉まった。そしてゆっくりと車体が動き出す。
新しい生活が、きっと新しい風を運んでくる。そこで、新しい自分が、きっと。
そう信じて、秀一は目を閉じた。
秀一は行久に秘密にしたまま、単身大阪に向かった。