清想空

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open05.04.12
胸の奥底に涌き出づる苦みは誰のために。 前編
秀一はホームに足を下ろして周りの景色を眺めた。
五年振りに見る風景は懐かしく、あまり変わっていない気がした。
五年か。
縁遠くなっていた自分を少し自嘲しながら、それでも気分は悪くない。
三月の強い陽射しをプラットホームの屋根の下から振り返ると、駅前の桜並木が目に入る。まだ蕾の桜も、あと一週間もすれば膨らんで綺麗な花を咲かせるだろうと思わせる。
清々しい空気が心地よい日だった。
天気の良い土曜日とあって、人出もそこそこあるようだった。そんな人々の様子を見て、口元に笑みをのせる。
秀一の気分も青々とした空に導かれるようにすっきりとしていた。
さて、帰るか。
ひとしきり辺りを見回してから改札への階段へ向かった。
秀一は五年振りに東京に帰ってきた。
初めは人員補填のための大阪への異動だったが結局は人材確保がうまくいかず、秀一は部署の下支えとして留め置かれ、気が付けば五年が経っていた。
新しい環境に慣れ、大阪支社での仕事に慣れ、文化の違いに慣れて。そんなこんなで生活と時間に追われる毎日を送っていた秀一自身はあまり長くも感じていなかったけれど。こうして故郷の風景を目の前にすると、長かったのだな、と自然と思えるから不思議だった。
秀一が三月の半ば過ぎという少し微妙な時期に大阪から帰ってきたのは、引継もあって四月に入る前から東京支社に顔を出すことになっているからだった。三月末で退職する人から直接引き継がなければならない仕事があるため、本来の異動の時期よりも急遽前倒しになったのだ。
そのせいもあって、というのは言い訳の一つでしかないけれど、東京での部屋はまだ決まっていなかった。
そもそもこの時期は、大学入試を終えて春から一人暮しを始める学生と、秀一と同じように転勤・異動で新たな住居を探さなければいけない社会人のせいでどこの住宅仲介業者も手一杯だ。今から探そうとしてもなかなか好条件の物件を見つけるのは難しい。
しかも大阪で使っていた家財関係はチェストとわずかな食器以外のほとんど全てを人にあげたりして処分してしまったので、それらもまた揃えなければならない。
そのことを考えると今部屋を探すのは秀一にとって得策ではなかった。第一、部屋や家財を探す時間的余裕はどこにもなかった。
そこで、秀一はしばらくの間実家に厄介になることにして、今日、五年振りに長年暮らしていた街に戻ってきたのだった。
駅から歩いて十分。
久しぶりに歩く道も、それから実家も、何も変わっていなくて秀一は思わず
「変わってないなー」
と声に出して笑ってしまった。ついでに隣にある久世家も変わっていないことを確認してから秀一は鍵を使って家の中に入った。
本当のことを言えば、実家には戻りたくない、という気持ちが秀一の中にあった。色々なことが思い出されるから、それにできれば触れたくないと思うこともあった。
けれどそれ以上に、秀一は新しく始まる生活を楽しみにしているのだった。
東京支社に戻るに当たって、秀一は前にいた部署にもう一度配属されることになっている。出戻りとは言え、五年も経てばメンツも大分変わっているだろう。知らない人がほとんどだろうという不安ももちろんある。
それでも、新しい出会いも今の秀一にはとても楽しみだった。
だから、秀一は実家に帰ってきた。新しい生活への期待を抱いて。過去は過去として受け止められるようになったから、前を向いていくように未来を見据えて。新しい生活に年甲斐もなく胸を躍らせて帰ってきた。
部屋が荒らされたりしていないかどうか一通り見分した後、二階の自室で手荷物として持ってきた服を収納にしまい終えると、秀一は一息入れることもなく家の掃除を始めた。
タイミングの悪いことに優哉は仕事の関係で来週にならないと帰ってこない。おまけに両親は夫婦で旅行に行っていて明日にならないと帰ってこない。
家族が出払っていたせいでしばらく人のいなかった家を綺麗にするのは、秀一しかいなかった。
今日帰ってくるということを告げたとき、母親の多佳子は「私たちがいないんだから翌日の日曜に帰ってくればいいのに」と言っていた。けれど、月曜から支社に顔を出すのに直前に帰るのは嫌だと言って、秀一は今日帰ってくることを決めたのだった。
「あれ、もうこんな時間か」
全部の部屋をざっと掃除し終わった頃には、既に辺りが暗くなり始めていた。時計を見れば既に五時半を回っている。
「どうするかなー」
夕飯は何か店屋物を取ってもよかったが、そんなに疲れているわけでもないので自分で作るのでもよかった。
秀一は少しの間迷ってから、優哉が帰ってくれば嫌でも豪勢な料理を食べることになることに気が付いて、自分で作ることにした。
買い物を手早く済ませた秀一は豚肉と茄子とししとうの味噌炒め煮を作って、ついでに酒屋で買ってきた日本酒の封を開けた。
日本酒を好んで飲むようになったのは大阪に行ってからだ。向こうで知り合いになった男に教えてもらって好きになって、男と一緒によく飲んだものだったが、今では自分だけでも飲むようになった。
猪口やぐいのみの類が実家にはないのでしかたなく背の低いグラスに日本酒を注いだ。
これでようやく準備が整ったと、ようやく一つ息を吐いて秀一は体から力を抜いた。
「よし、食べるか」
いざ食べようと秀一がエプロンを解いて席に着こうとしたとき、不意に玄関のベルが鳴った。
いいところで誰だ、と思いながらインターホンを取ると、随分と長い間、聞いていなかった声が耳に飛び込んできて、どきりとした。
「もしもし」
『あ、行久だけど、秀一だろ?』
なんでわかったんだろう。
困惑は動揺になるかと思われたが、予想外に秀一は落ち着いていられた。心臓が跳ねたのは本当に一瞬のことだった。
「そうだけど……」
『少し、いいか?』
「……いいよ。今、ドア開ける」
秀一がドアを開けると、行久が複雑そうな顔で立っていた。
五年振りに見るその顔は、記憶にあるよりも少し男くさい感じがした。
それもそのはずで、秀一も行久も今年で三十になる。男も盛りと言われる時期に差し掛かっているのだから、行久の男らしさに磨きがかかっていても何の不思議もなかった。
「優哉は来週までいないし、おじさん達は明日まで帰ってこない、って言ってた。だから部屋の明かりを見て秀一だろうと思った」
なるほど、とようやく合点がいった。
うちの家族と行久は必要以上に仲がいいし、何より優哉とは恋人同士だ。情報のやり取りは頻繁にあるはずで、明かりが点いてるのを見て秀一が帰ってきてると予想できるのも当然だった。
行久はただ頷くだけの秀一にわずかに困ったような顔をして、一言付け加えた。
「……上がってもいいか?」
少し低めの声が耳に心地よい。
そうだ、自分はこういうところにもときめいていた。この声で名前を呼ばれると、嬉しいような悲しいような不思議な気分になったものだった。
秀一はそんな昔の自分を懐かしく思い返した。
「秀一?」
感傷に浸るように考えていた秀一は行久に声をかけられて現実に戻る。
「ああ、……まあ上がれよ」
どこか、五年という隔たりのせいで何とも言えない空気感がまとわりつくものの、秀一は普通に行久に言葉をかけることができた。ただの幼なじみとしての会話を出来ているように思った。
そう、何もなかった頃の自分たちのように。
「……夕飯にするところだったのか。悪かったな」
リビングに連れて来られた行久は続きのダイニングに食事の用意が出来ているのに気付いて、相変わらずの優しさを見せた。
そんなものすら懐かしく、改めて五年という月日の長さを実感する。
変わってないな。
思って、秀一は微笑んだ。
「気にしなくていいよ。そうだ、行久、お前夕飯は食べたのか」
「いや、まだだけど」
「どうせなら一緒に食べるか。つい作りすぎたんだ。すぐに用意するから」
「いや……」
行久が何かを考えるような顔をしている間に、秀一はさっさと準備に取り掛かる。行久がうちでご飯を食べることは以前は珍しくなかった。だから、それを久しぶりに再現してみた。
ダイニングと対面する形のキッチンで行久に背を向けて皿に食事を盛っていると、行久が話しかけてきた。
「秀一、日本酒飲むんだな」
テーブルの上に乗っているグラスを見ての発言のようだった。
言われてみれば、大阪に行くまでの自分はワインやカクテルといった洋酒をメインに飲んでいたので、最近の秀一を知らない行久から見れば意外だったんだろう。
「ああ、向こうで知り合いにすすめられて。それまで洋酒中心だったけど、日本酒も好きになってさ。けっこうおいしいよな」
同意を求めても行久からの返事はなかった。代わりに質問が投げかけられて、秀一の顔がぴくりと引きつった。
「……どうして、何も言わなかった」
唐突に発せられた行久の少し堅い声。
秀一には行久がどのことを責めたいのか、わからなかった。思い当たることはいくらでもあった。それでも何でもないことのように聞き返す。
思い当たる節があるというような素振りを見せるわけにはいかなかった。
「……何のことだ?」
「どうして大阪に行くことを黙ってたんだ。なんで、俺にだけ黙ってた」
その声は苛立っているようで、行久にしては珍しいと秀一は本題とは全く違うことを思う。こんな風に苛立つ行久はもうずっと見ていなかった。
「あれ、そうだっけ。多分言い忘れただけだと思うけど……。もう五年も前だからよく覚えてないな。急に決まったことだったから、ばたばたしてたし」
明るく言いながら、少しだけ胸が痛い。自分のためとは言え、嘘をつくことにはわずかな罪悪感が伴う。
それでも秀一はその嘘を突き通さなければならなかった。たとえそれが五年も前の話でも。
あくまで忙しくて忘れていて、故意ではないのだと、行久に信じ込ませなければならなかった。
けれど行久は秀一の言い訳をすぐには信じてくれない。
「……本当にそれだけか? 大阪に行ってから、俺が電話しても出ない、メールにも返信してこない、完全無視だったことは」
「完全無視って、そんなわざとみたいに言うなよ。向こう行ってからしばらくの間は本当に時間なくてやばかったから、多分それでへばって気力がなかったんだろ」
嘘だ。
心の中で呟いた。
全部、嘘だった。本当は行久を振り切りたくて、行久への思いを断ち切りたくて、電話にも出ず、メールも読まずに削除した。自分の世界から、思い出以外の行久を消し去ろうとしていた。
「何言ってるんだよ、行久」
はは、と笑い飛ばしながら、秀一は顔を歪めないように努力した。
気を抜けば食事の準備をする手まで止まってしまいそうだった。止まったら、行久に変に思われる。
それだけは避けたくて、その気持ちだけで手を動かす。いつものように、手際よく準備しているように見せなくては。
なのに、そんな秀一の気持ちなど踏みにじって行久はなおも言葉を次ぐ。その声にはわずかに怒りのような感情が込められているようだった。
「気力がなくて? お前にとって、俺はその程度の存在ってことか」
「……何の話だよ?」
さすがに話が飛びすぎてついていけない。なぜそんなに突っかかってくるのか、秀一には理解できなかった。
「俺とお前は幼なじみなだけだろう」
秀一が言いながら何でもない顔で振り向こうとしたとき、温かいものが背中を包んだ。
すぐにそれが行久の体だとわかっても咄嗟に声も出ず、体も動かなかった。
手にしていたしゃもじが音を立ててキッチン台に落ちた。
けれど、行久の腕に力がこもっていっそう体が密着すると、さすがに驚いて思った以上に大きな声が出た。
「何っ?!」
秀一は驚きのあまりパニックに陥りそうになる。
いきなり行久が後ろから秀一を抱きしめてきたのだから、それも当然のことではあったけれど、なぜ行久がそんな行動に出たのか見当も付かなかった。
なんで、どうして。
心臓がすごい勢いで鳴っているのがわかる。それを知られたくなくて、なんとか行久の腕を外そうとしたけれど絡み付く腕は離れない。しかも行久は秀一を放さないまま、首に口付けてきた。
わざとのように音を立てて、舌が触れる。
ぞく、と首筋を駆け抜けるものに秀一は声を上げそうになって、なんとか堪えた。久しぶりの感覚に秀一は赤くなる。
こうやって誰かに肌を許すのは、随分長いことしていなかった。するとしてもキスまでだった秀一は、与えられたきつい刺激に身を竦めた。
「っ……」
絶え間無く項に落とされるキスに体が震えて抵抗できないのをいいことに、行久は前に回している手を服の中に突っ込んで秀一の肌を撫でる。温かい手の感触に肌がさあっと粟立った。
「ちょっ……と、行久……!」
止めろと言っても行久の手は腹の辺りを動き回り、少しずつ上がってくる。手を押さえようとしてもそれ以上の力で手が這い上がる。
秀一の呼吸が乱れそうになる。
駄目だと思うのに、声を殺して震えるしかできない。
対照的に行久は乱れのない声で、耳元で秀一を糾弾する。
「なんで黙っていなくなったりした」
「そんなことっっ。いいから放せよっ。なんでこんなっ」
叫ぶのに、秀一はその先を次げない。
どうして、どうして、どうして。
そればかりが頭の中をぐるぐると回って、うまく言葉が出てこない。とにかく早くこの腕から逃れなければ、とそれだけを考えて放った言葉は、情けなくも震えていた。
「とにかく放せよ」
震えに気付いたのか行久の手の動きが止まり、代わりに秀一を抱く腕に力がこもった。行久の胸が背中について熱を伝えてくる。
ひどく秀一を落ち着かなくさせる熱だ。自分の体にその熱が移りそうで、秀一は身を更に小さくする。
「ずっとお前のことばかり考えてた」
「何言って……」
行久の顔が頭に付けられる感触があった。髪に行久の息がかかって秀一はわずかに身を竦めた。
早く逃げなければ、何かに捕まってしまう。
見てはいけない、触れてはいけない、そういうものに捕まってしまう気がして逃げなければと思うのに、体が自分の意思に反して動かなかった。まるで呪いをかけられたように、顔すら強張ってしまった秀一は次に掛けられた言葉に絶句する。
「好きなんだ。お前が」
いきなり何を言うのだ、と思うことさえできなかった。頭の中が真っ白になったように、もうどうすればいいのかもわからない。体も強張って動けない。
何を言うべきなのかも思い付かなかった。
本当は「何馬鹿なこと言ってるんだよ」と軽く受けて笑わなければいけなかったのに、何もできなかった。ただ、抱きすくめられているだけ。
何の反応も返さない秀一に行久はもう一度繰り返しながら、秀一の顎に手をやって無理に振り向かせようとする。
「好きだ」
有り得ない言葉を形にした唇が近付いてくる。そうしてあとわずかで秀一のそれと触れ合うというところまで行久の顔が近付いて、ようやく秀一は事態のおかしさに気付いた。

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