清想空

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open05.04.12
となり 第2話
 
覚えのない顔にじろじろと見られて不快だったけれど、男はそんな暢の様子には頓着もせず、
「やっぱ来生じゃん」
と声を弾ませた。
名前を知っていることから、どうやら暢のことを知っているようだが、あいにくと暢にはそれが誰だかわからなかった。ただ、ラフな格好から大学生くらいだということはわかったけれど。
「あの……」
相手は覚えているのに自分は覚えていないという状況が、相手にとってとても失礼なことだとわかっていても、どうすればいいのかわからなくてとりあえず声をかけてみる。
「その顔は俺のこと覚えてねえな? 川西<かわにし>だよ、川西。高一、高二と同じクラスだったんだぜ?」
「川西?」
そんな人いただろうか。眉をひそめて首を傾けると、川西は吹き出した。げらげらと笑って暢の背中を二、三度叩く。顔をしかめると「悪い悪い。隣いいか?」と言って、暢が返事をする前にさっさとスツールに腰掛ける。
「覚えてなくても仕方ないか。来生とはあんまり遊ばなかったし、修学旅行も一回も参加しなかったもんな」
「それは……」
高校時代、あまり人と関わらなかったのは、素性を知られたくなかったからだった。
もちろん、元生園を出た後の生活や、菊池に世話になった学費を少しずつでも返していくためのアルバイトで忙しかったのもある。
けれど本当は、事情を知ったときのクラスメートの反応を見たくなかった。特別扱いや、どこか遠慮する態度を感じたくなかった。そしてなにより、皆が普通に持っているものを自分が持っていない、ということを目の当たりにしたくなかった。
別に卑屈になっていたわけではないし、クラスメートと仲が悪かったわけでもない。ただ、心の距離だけは縮まることはなかった。いや、あえて縮めようとしなかった。
ただそれだけのことで、対人恐怖症だとか、何か重要な理由があるわけではなかったのだけれど、それをありのままに話すのはあまりに馬鹿らしく思えて、暢は言葉を濁した。
「別に深い意味があったわけじゃないよ……」
「いいって。なんか事情があるっぽいってのはなんとなくわかってたしさ。でもさ俺、高二のときは来生の前の席だったんだぜ。川西と来生で前後だったのに覚えられてないのは、少し寂しいな」
坂崎を呼び付けて酒と料理を頼んでいる川西の横顔を見て、なんとなくそんな顔が近くにあったような気もしないではなかったが、どうしてもはっきりと思い出すことはできない。
近くにいたのに覚えていない自分に驚いたが、川西が暢の事情をうっすらと感じ取っていたことにも驚きを覚える。ひょっとすると川西は人のことをよく見ているのかもしれなかった。
「……悪かった」
「謝るなよ。でも高校でも悪名高かった俺を覚えてないってのも、ある意味すごいよ。……なあ、ところでさあ、スーツ着てるのってやっぱ就職したのか?」
何がどう悪名高かったのか興味を引かれたけれど、口を挟む隙を与えずに川西は明るく話を続ける。暢が大学に行ったとは考えないあたり、川西の観察眼は冴えている。しかもさらりと聞いてくるので、毒気を抜かれて嫌な気分にさせる暇すら与えない。
「まあ、一応。……ところで、川西……は何でこんなとこにいるんだ?」
「それは俺も聞きたいな。まさかこんなところで来生に会うとは思わなかった」
「……俺も」
川西は坂崎からグラスを受け取ると一口含んで、坂崎を指差した。
「俺さあ、実は坂崎さんと知り合いなんだよね。その関係でよくここには顔出すんだけど、今日はこの間サービス券もらったから。今さあ、親が福引で当てた旅行券で温泉に行っちゃっててさ。夕飯作んのめんどくさいから食べにきたってわけ」
「坂崎さんと? 年も違うのに知り合いなのか、珍しいな」
「そこはそこ、人との出会いなんて、どういう巡り会わせかってもんだろ。どこで誰と知り合うかわからないから楽しいんじゃないか」
「……そう、かもな」
そう言って坂崎を見遣ると、微笑が返される。
「来生さん、次の飲み物と料理、どうしますか。また夕食はとられてないんでしょう?」
「はい。今日も夕飯を兼ねて。ええと……何にしようかな」
「何か適当に持ってきてよ。それでいいだろ? 坂崎さんならちゃんとしたチョイスしてくれるって」
「……ああ。じゃあそれでお願いします」
「わかりました」
川西に仕方ないなと言わんばかりの視線をやって、再び坂崎は下がっていった。
 
 
 
口からぽろぽろと言葉が零れた。
そんなこと言わなくても、と思うのに酒のせいか思考が深くならず上滑りする。その間に理性の制止を振り切って口が勝手に動いた。
暢にとってはある意味深刻な問題だったけれど、まるで他人事のように軽く言葉が流れていく。
暢はぺらぺらと未知子の妊娠、結婚騒ぎを川西に話してしまった。そして自分たちが両親を亡くして施設で育ったことも。全部をぶちまけてしまった。
「もう俺、泣きたい」
「じゃあ泣けばいいじゃん」
「だってさー、たった一人の家族なんだよ? なのにそれすら他の男が持ってっちゃうんだよ?」
「そんなに渡したくないなら自分の腕の中に閉じ込めて、外に出られないようにしろよ」
「そんなことできないよ」
「できないなら、うじうじすんな。めんどくさい」
「めんどくさいって……」
「未知子ちゃんだってそんな来生が嫌で、早く自立したがってるのかもよ?」
暢は痛いところを突かれて絶句した。
どうもこの川西という男は意地が悪いようで、さっきから暢の言うことにちくちくと刺のある言葉を返してくる。しかも本人は至って平然とした顔をして、さらっと言い返してくるのだ。
「なんでそんな刺のあることばっかり言うんだよ」
じっとりとした視線を投げかけると、川西は薄ら笑いを浮かべた。
「これが俺の趣味。人をイジルのが好きなんだ」
「いじるって」
「『虐める』の一歩手前。人の痛いところを突くけど、本当の不快感を与えはしない、ぎりぎりのラインで人を弄ぶこと。悪名高いのは、高校時代これが行き過ぎていろんな奴を泣かせたからな」
当たり前のことをさも当たり前のように話す川西は、一体何物なのか。
もしかしなくても今、彼にとってのいじる相手は自分なのだろうか。
ぐるぐると思考が回る。ただでさえ酔っていてまともな思考回路ではないのに、余計にひどくなる。
「いじられるのが嫌なら、帰れよ」
にやにやと笑いながらかけられた言葉に、けれど暢は頷かなかった。
未知子までが自分の傍からいなくなるという事実は、どうしようもなく暢を寂しくさせた。そして自分の傍には親密と言えるほどの人間もいない。
「……いじってもいいから一緒にいてくれ」
暢の口から零れたのは、ほんの少しの本音だった。

カクテルグラスを持ったまま机に突っ伏した相手を見て、川西はいささか慌てた。
「おいっ寝るなっ」
肩を揺さぶると暢はグラスから手を離して、隣に座る川西をとろんとした目で見てくる。
「……眠い」
「眠いなら帰れ」
しぱしぱと目を瞬かせるものの、眠気には勝てないらしい。開けてはすぐに閉じてしまう。
正直に言って、川西は暢がこんなに酒に弱いとは思わなかった。目茶苦茶に弱いというわけでもなさそうだが、まず強くはない。比較的ゆっくりとしたペースになるように気を使ったつもりだけれど、それでもこんなに酔っ払うなんて予想外だ。
というよりもこんなに酔っ払わせるつもりではなかった。ちょっと酔わせて話させようとしただけなのに、暢が自爆したおかげで結果がこれだ。とんだ計算違いだった。
ため息をつきたい川西の気持ちなど知らずに、当の本人はむくりと起きだす。
「そうだ、帰る。朝、未知子が今日も泊まるって言ってた」
帰らなきゃ、とカウンターに両手をついてスツールから下りようとして、暢はそのまま様子をうかがっていた川西に倒れ込んできた。危うく持っていたグラスを倒しそうになった川西が「危ねえなっ」と叱りとばしたが、川西の肩口にもたれかかった暢が起き上がる気配はない。
「おい、大丈夫か」
心配になって暢の肩に手をやって身体を起こさせると、小さな声で世界が回ると返してきた。
よっぽど酔っているらしい。これでは家まで帰れるはずもない。
「おい、とりあえず座れ。な?」
立たせておいては危ないだろうと座るように勧めるけれど、暢は首を振ってあくまで帰ると主張する。
「やだ、帰る。未知子がいるから帰る」
「帰るったって、こんなに酔ってて帰れるわけないだろう!」
「でも帰る」
「だから無理だっつってんだろっ」
会話にならない。
このまま店に置いて帰ってやろうか。そうすれば帰ることもできず、ここでそのまま寝てしまうだろう。
一瞬魔がさしたような考えが閃いたが、思い止まった。
店に置いていったら、絶対に良くないことになる。今まで散々川西にこぼしたように、他の人間にも同じことを言うのは容易に想像できた。
目を潤ませながら、寂しいから傍にいて、などと言ったあげく、絶対誰かに持ち帰られる。バーテンの坂崎だってこんな好機を逃すはずはない。
暢は綺麗な顔という印象こそないが、整っている顔立ちは端整と言っていいかもしれない。格好いいというのとも違って、あまり性別を感じさせないような中性的な雰囲気をしていると思う。あくまで顔の話だが。
そんな顔立ちを赤らめて――それは酒のせいだが――、ほっそりとした指で袖を摘んで「傍にいて」などと言った日には、その手の人間は間違いなく手を付ける。そうに決まっている。
そう確信するが故に川西は暢を突き放すことができない。だからといって、暢の家も知らないから送り届けることもできない。
「おい、起きてるか?」
「何とか起きてるよぅ……」
いまだ川西にもたれ掛かったままの暢はヘロヘロとした声で答えた。
どうやらまだ意識を飛ばしてはいないらしい。少しだけ安心して、川西は足元の覚束ない暢を無理矢理――と言ってもほとんど力を要しなかった――スツールに座らせた。それに抗議しようとしたのだろう。顔を上げた暢に、けれど川西は文句を言わせずに言葉を突き付けた。
「お前ん家の電話番号教えろ」
「んー?」
「電話番号だよ、で・ん・わ・ば・ん・ご・う! お前の!」
「電話番号か。えーと……」
半分寝ているも同然の暢から聞き出した番号を、坂崎から借りたペンでコースターの裏に書き留めて、川西は暢にきつく言い渡す。
「いいか、ここで大人しく座っとけ。絶対に動くなよ。俺が帰ってくるまでここにいろよ!」
ついでに近くにいた坂崎に暢を見張っておくように言い渡して、川西は店を出てすぐのところにある公衆電話に向かった。
テレフォンカードを緑の電話機に差し込み、書き留めた番号をプッシュすると、数回のコール音の後、程なくして相手が出る。
『はい、来生です』
細い女の声は電話を通しているせいか、あまり聞き慣れない声に思えた。
「もしもし、都立第一高校で来生君とクラスメートだった川西と申します。そちら、未知子さん、ですよね?」
『はい、そうですが……。もしかして、一高<いちこう>で有名だったあの川西さんですか?』
「あの」というのが何を指すのかはわからないが、おそらくそれが自分のことであるのは間違いないだろう。
高校生の頃、川西は人をいじることに夢中になっていた。
いかに、「いじる」と「虐め」のぎりぎりのラインを突くか、研究していた。そのために自分の周りにいる人間を手当たり次第実験台にし、いじる人間がいなくなったら学校内の人間で使えそうなのをターゲットに据えた。もちろん、教師も例外ではない。
その結果、高三になる頃には川西は人をいじるプロと周りからも認識されるようになったが、同時に「身に覚えのある奴は三年の川西敬吾<けいご>には近づくな」というお触れまで学年の垣根を越えて校内を駆け巡るようになった。
身に覚えがある奴って一体何の覚えだと苦笑しつつ、例に漏れず噂におひれやはひれがついて膨らんでいったのだろうとおかしく思う。
だからこそ二つ年下、川西や暢が高三の時に高一だった未知子が、川西のことを噂だけでも知っていたことは特に不思議でもない。
「多分、その川西です」
『そうですか。あの、ところでどういった御用件でしょうか?』
ちらりと腕時計に目をやると既に十時を回っている。高校生の未知子にしてみればもう十分遅い時間だ。そんな時間にいわくありげな人間が電話をしてくる意味がわからないのだろう。
「実は、偶然バーで来生と会って飲んでたんだけど、来生のやつ酔っ払いすぎて帰れなさそうなんだ。本人は帰る気満々なんだけど、無理だと思う。で、今日は未知子さんが来生ん家にいるって聞いたから、ご報告まで。来生は俺の家に連れて帰るから、帰ってこなくても心配しないで」
『……兄さん……』
向こうで小さくため息をついたのが聞こえた。
『兄がご迷惑をおかけしているようで、すみません。こんなこと初めてで……』
「いや、まあ。……そういえば、結婚するんだってね。おめでとう」
『あ、ありがとうございます』
「来生もたった一人の妹が結婚するのでショックだったみたいだよ。だから今日のことは大目に見てやって。明日は土曜日だし、泊まっていっても問題ないと思うし」
『……本当にすみません』
その後、二、三会話をして受話器を置いた。
らしくもなく人のフォローを少しし過ぎた自分に苦笑して、吐き出されるテレフォンカードを取って急いでLanternに戻った。
エントランスの近くにいた南井を捕まえて会計をしてから暢のところに戻ると、カウンター越しに坂崎が何食わぬ顔でグラスを磨いていた。当の暢はカウンターに完全に突っ伏している。
「完全に落ちたの? こいつ」
「さっきまでは耐えてたんだけど、もう無理だったみたいだな。このまま置いていってもいいよ」
食わせ者の顔で微笑む坂崎は、けれど眼鏡の奥から投げ掛けられる視線が研ぎ澄まされていて、とても冗談で言っているような気配ではない。
相手が暢でなければ知らない振りでそのまま店に置いていくのだが、さすがに元クラスメートが坂崎の手にかかるのを見るのは後味が悪すぎる。坂崎が川西と同じ手合なのもあまり気分が良くない理由の一つだ。
「いいって。坂崎さんに迷惑はかけられないって。こいつは連れて帰るよ」
「ふぅん」
納得のいかなさそうに頷いてみせたが、それとは裏腹に坂崎は暢を起こしにかかった。川西もそれにならって無理矢理に暢の上半身を起こさせた。
「おらっ起きろっ」
頬を叩いたり抓ったりしてようやく目を開けた暢に、坂崎に持ってこさせた水を飲ませて立たせる。そのままふらふらしている暢の肩を抱いて、南井や坂崎に見送られながら店を出た。
すぐに大通りに出て、捕まえたタクシーに転がり込むように乗り込んだ。
 
 
 
突然に暢の目が覚めた。
いやに綺麗に意識が戻ってきて、不思議だった。
珍しいと思いながら起き上がると、そこでようやくいつもの見慣れた自分の部屋ではないことに気付いた。
「どこだ、ここ……」
視線を振ると部屋の雰囲気が柔らかい。なんとなく部屋の持ち主は女ではないだろうかと思い、暢は一瞬ひやりとしたけれど、そんなことがあるはずないと思い直した。
朧げながら川西がベッドに運んでくれたような記憶が残っている。
暢はベッドから起き出すと立ち上がって部屋を出ようとしたが、床に落ちかけた毛布に足を取られて派手に転んだ。
「いったー……」
見事に打った腰を押さえて呻いていると、慌てたような足音とともにドアが勢いよく開いた。
「おい、すごい音がしたけど大丈夫か?」
「なんとか。腰打ったよ」
部屋に入ってきた川西は驚いた様子だったが、暢の返事を聞いて安心したようだった。ほら、と言って手を差し延べて、暢が立ち上がるのを助けてくれる。
「気分は悪くないか?」
「……特には」
「そりゃあよかった」
そのどこか刺を含んでいるのではないかと思わせる口調に、昨晩のことが一気に思い出されていたたまれなくなる。
何をあんなにぺらぺらと。
思い出すだに後悔にまみれて、それこそ穴があったら埋まってしまいたい気分になる。
話す必要がないと思うようなことさえ口調も軽く話してしまった自分にそれこそ幻滅したが、そんな暢を知ってか知らずか川西は何も特別なことは何もなかったかのように接してくる。
川西に促されるまま渡されたシャツと細身のパンツに着替えて、階段を降りて川西家のリビングに移動した。川西の話によると、暢が寝ていた部屋は結婚して家を出た姉のものだそうだ。
ソファに腰掛けて時計を見ると既に十時近かった。随分長い間寝ていた自分も恥ずかしく思えて、いたたまれなさは増すばかりだ。
遅い朝飯をどこかに食いに行こうと川西が言い、身支度を済ませて玄関で靴を履こうとして、暢は重要なことを思い出した。
「あのさ、昨日のバーとタクシーの代金だけど……」
「ああ、タクシー代はいいよ。ランタンの代金は割り勘で、来生の分は坂崎さんに立て替えてもらったから、今度坂崎さんに返して」
さっくりと言い返されて、暢は思わず服と鞄を入れてもらった紙袋をきつく抱きしめた。
「本当に、ごめん。その……こんなに迷惑をかけるつもりじゃなかったんだけど……」
「いいよ。酒に酔っ払うなんてよくあることだし、大学生の酔い方なんてもっとひどいぜ? そんなに気にすることねえよ」
「……そ、そう?」
「それより、坂崎さんから伝言。これに懲りて店に来なくなるなんてことはないように、だとさ。要するに気にするなってこと」
そこまで気を使われると、逆に悪い気がしてならないけれど、ここは好意に甘えてもいいのだろうか。少なくとももう社会人である自分がこんな体たらくをさらすなんて、恥以外の何物でもないと思うのだが。
それでももう一度、気にするなと背中を強く叩かれると、もうそれでいいような気になって暢も頷いた。
そうして、二人で近くのファミリーレストランで食事をした。その間に最寄りの駅の場所を聞いた。特に盛り上がる話題もないような雰囲気だったけれど、不思議と居心地は悪くなかった。
「あのさ」
別れ際に川西は暢に一枚の紙を渡してきた。
「何か話したいこととかあったら、呼び付けていいから。ただし予め連絡よこせよ。大学生はふらふら遊び回ってるからな。二、三日前希望」
「わかった。……ありがとう」
頷いた暢は電話番号の書かれたそれをパンツのポケットにしまい、次に会う時に今日借りた服を返す約束をして川西と別れた。