清想空

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open05.04.12
となり 第1話
嘘だと思った。
たちの悪い冗談でからかっているのだと、思いたかった。
「何、言ってるんだ、未知子<みちこ>」
目の前の人物にあてて言った自分の顔に何とも言えない表情がのった自覚が、暢<とおる>にはあった。
「兄さん……」
どこかひっそりとしたたたずまいの少女――年齢的には既に青年だったけれど暢にとってはいまだ少女に見える――は、困ったように顔を傾けた。長い髪がさらりと動く。
「嘘、だよな? 俺をからかってるんだろ?」
「……ごめんね」
瞳を閉じて放たれたその一言で、暢は地獄に落とされたような気分になった。
もはや疑いようがない。間違いなく、未知子の言うことは事実だと。
暢は力尽きたように近くのソファに座り込んだ。
「相手は……相手は誰なんだ」
両手で顔を覆って、それから前髪をかきあげる。上目使いに未知子を見ると、彼女自身もどこか不安そうな複雑な顔をしている。
もしかしたら暢が怒っていると思っているのかもしれない。昔から、暢が怒ると未知子は必ずと言っていいほどこんな表情になる。
「悪い、怒ってるわけじゃないんだ。ただ、……すごく驚いてる」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。別に悪いことをしたわけじゃない、だろう?」
うなだれる未知子はいつも以上にはかなげに見えて、暢は自分の態度が彼女を傷つけていることを苦く思った。
未知子を傷つけたいわけではなかった。むしろ傷ついたのは暢の方で、だからこそ言葉や態度に刺が混ざってしまった。
悪いのは未知子ではない。
たしかに暢を傷つけたという意味では、未知子が悪かった。でも、だからと言って彼女を傷つけていいはずがなかった。
「俺は、未知子が決めたことなら、それでいいと思う。怒ってないし、文句もあまり言いたくない」
「うん」
「こっちにおいで」
頷いた未知子に隣に座るように手招きすると、少しだけ強張った表情になった。それでも素直に隣へとやって来て腰掛ける。
互いにとって初めての経験だから、どちらも緊張していて空気はいつになく張り詰めている。けれど暢はそれを破ろうとはせずに、未知子の目をじっと見つめた。
「好きで、結婚したいと未知子が思ってて、相手もそうなんだよな?」
「うん」
「相手はどんな人なんだ?」
「アルバイト先の先輩で、八つ年上の人」
「八つ? 今二十五か」
随分年上のように思えたけれど、普通に大学を出て就職していれば入社三年目あたりで、第一次適齢期のぎりぎり範囲内に入りそうなところだ。第一、この場合は相手が年上すぎるのではなくて、まだ十七歳の未知子が若すぎるのだ。
暢の口からはため息が零れそうになったが、また未知子を傷つけることになりかねないとぐっと堪えた。
「それで?」
「優しい人。私のことを一番に考えてくれるのよ。私、申し訳なく思ってしまうくらい、大切にされていると思う」
「そうか」
「……あのね」
覗き込んだ未知子の瞳が自分の意思を正確に伝えようと、真摯な光をたたえる。それだけで、この寂しがり屋の妹が真剣に自分の状況と向き合っていることがわかり、暢は何とも言い難い気持ちで一杯になる。
「優しいから、それだけで好きになったわけじゃないの。自分にも他人にも厳しいところのある人で、私と意見がぶつかることだって結構多いんだから」
それは私がまだ高校生だからってこともあるだろうけど、と幾分表情を曇らせたが、すぐに未知子は微笑んだ。
「でも、ずっと一緒にいたいと思うの。彼と、いたいの。そんな風に思うのは初めて。やっと私にもそんな人が現れたのよ。きっと私、幸せになれるわ」
瞳を輝かせ、その内に確固とした意思を感じさせる未知子は身内びいきだとしても、暢には美しく見えた。
身体が人並みに丈夫とは言い難い未知子は、けれど内面は意思が強く、どこか情熱的でもあった。そんな風に人を真っ直ぐに愛せる未知子は羨ましくもあったが、暢にとっては苦々しい思いの方が強い。
未知子のようにその気持ちだけで生きていくことが、自分にはできないとわかっているからだ。
「今回の妊娠のことだって、勢いとか、避妊に失敗したから、とかじゃないのよ。ちゃんと二人の合意の上でのこと、なのよ?」
さっき未知子自身の口から聞かされていたとは言え、妹の口から妙に生々しい単語が出てくるとどきっとする。暢の中では未知子は庇護しなければならない存在で、まだ心情としては大人になってほしくなかった。
それも今となっては詮無いことだが。
「名前は? 相手の名前」
「蓬田一彰<あいだかずあき>さんよ」
「……そうか」
まさか二十歳で、自分が娘を嫁に出す父親の心境を味わうことになろうとは、さすがの暢も想像していなかった。いずれそういう時が来ることは覚悟していたけれど、まさかそれがこんなに早く訪れるなんて。
どうやら自分はあくまでも普通の人生とやらとは縁がないらしい。そんな自分を多少は恨みがましく思わなくもなかったけれど、未知子の幸せを喜ばないわけにはいかない。彼女は唯一無二の大切な家族だから。
「未知子」
視線を外して、名前を呼んだ。そっと手を未知子の頭にやって、暢の頭に引き寄せる。
「幸せになれよ」
ついに未知子が自分の手から旅立ってしまうのだという実感に、迂闊にも涙ぐみそうになって、それをごまかすために目を閉じた。
「うん」
頷きながら細く答えた未知子の声は揺れていた。ひょっとすると未知子の瞳も涙をたたえているのかもしれなかった。
「……今日は泊まっていくんだろ。先に風呂入れ」
しばらく二人とも動かなかったけれど、無駄に湿っぽくなる空気を嫌って、暢は強引に話題を変えた。
「もう、兄さんったら」
暢の意図を汲んだのか、未知子は目尻のあたりを指で拭いながらぱっと身体を離した。
「もう、大事な身体なんだから、大切にしろよ」
「うん。じゃあ、お風呂先にもらっちゃうね」
明るく振る舞う未知子はもう一度頷いてから、リビングを出ていった。少ししてバスルームのドアが閉まる音がした。
「……はぁ」
今までこらえていたため息を出すとともに、暢は一気に脱力した。
高校を卒業して、就職して一年。二年目に入って、ようやく仕事にも慣れてきたか、と自分でも思えるようになった頃、まだ施設に世話になってる美知子から大事な話がある、と電話をもらった。まさか、それが未知子の妊娠の話だとは、その時は思いもしなかった。
約束していた今日、仕事から帰って来た暢を迎えた未知子は、着替える隙すら与えずに、「私、妊娠したの」と告げてきた。
高校生になってアルバイトを始めて、そのアルバイト先の人と付き合い始めたということは知っていた。年上という話も聞いていた。
けれど付き合って一年で妊娠とは一体何事か。しかも未知子は「これを期に彼と結婚しようと思うの」と続けたのだ。
暢は短い時間の内に、未知子の幸せを喜びたいという気持ちと、妊娠という突然の事態に対する憤りの板挟みの状態になった。
結局はたった一人の肉親が幸せになる機会を奪うことはできないと、折れるしかなかったけれど。それでも怒りに似た気持ちは納まらない。
人は両親だけでなく暢から未知子まで奪うのか。
そんなことを言ったところでどうなるわけでもないのにと、どこかでくさくさとしてしまう自分を嘲笑いたかったけれど、できなかった。
両親は暢が小学校に上がる前に亡くなった。聞いた話では交通事故だったらしいが、暢自身はそこら辺のことはよく覚えていない。
両親を亡くしたショックとか、そういった精神面の話ではなくて、どうやら単純に幼い日のことが遠い昔の出来事として忘却の彼方へやられてしまったらしい。小学生以前の記憶はとぎれとぎれで、もう大分色褪せてしまっているし、その後に色々ありすぎて追いやられてしまったのだろう。
けれど両親が亡くなったと聞いたときに、自分がまだまだ小さい未知子を守らなければならないと、自分だって幼いくせにそう強く思ったことだけはよく覚えている。何が起こったのか理解できていないようだった未知子を抱きしめて、必死で立っていた気がする。
おそらくはそのせいだろう。暢の中には未知子を守るのは自分でなくてはならない、と馬鹿の一つ覚えみたいな気持ちが常に渦巻いている。
自分だけが、幼い時分の自分に縛られているような気がして、それでもそれを反古にすることはできなくて、今こんなに苦しむことになっている。
でもそれも仕方のないことかもしれない。二人はずっと一緒だったから。
両親の死後、親戚が二人を引き取るという話は何回か出たけれど、未知子と暢が絶対に離れたくないと駄々をこねたために結局全て御破算になった。一人なら引き取れるけれど二人一緒は無理だったのだろう。
父方の親戚は随分と気にかけてくれたけれど、頑なに二人でいることを望んだ暢に愛想を尽かしたのか、葬式や家族が住んでいたマンションの解約などの事後処理を終えて施設――元生園という――に二人を紹介すると、親交は無くなった。ぱたりと途絶えた連絡を不安に思わなくもなかったけれど、元生園の園長である菊池<きくち>の助けもあってあまり気にせずに日々を送ることができた。
施設に入ってからも引き取り手の話は何回か出たけれど、その度に菊池が丁重に断りを入れてくれた。強い繋がりを持っている二人を引き離すのはよくない、と説得もしてくれたようだ。もしかすると未知子の身体が弱かったこともあったのかもしれない。
元生園に預け入れた時を最後にもう十四年も連絡を取っていない親戚だったけれど、いい施設を選んでくれたことだけは今でも感謝している。
そうして施設で成長しながら、兄妹の絆はより強固なものになっていったと思う。それは暢が高校卒業を期に園を出た今でも変わりはない。
そう。二人の結び付きに変わりはないのに、暢が未知子を守るという役目だけが二人の間から抜け落ちてしまった。
自分の役割が無くなってしまって、胸に大きな穴が空いてしまったような、空虚な気持ちを抱えている。
若すぎるということももちろんだけれど、今まで一番大事だった気持ちが奪われてしまったことに対する、そして未知子までが暢から去っていってしまうことに対する怒りや悲しみのせいで、未知子の結婚や妊娠を素直に喜べない。
自分勝手な感情だとわかっているけれど、それをどう処理したらいいのか、暢には皆目見当もつかなかった。やり過ごすだけの大人の余裕を暢はまだ持っていなかった。
「くそっ。アイダカズアキめ……」
吐き捨てるように言って、暢は初めて少しだけ感情を吐き出すことができた。
 
 
 
会社から二駅ほど離れた場所にあるバーに七時過ぎに足を踏み入れた。
暢がこうして会社帰りに店に寄ることはまれで、このバーも今回で三回目だったけれど店の人間には既に顔を覚えられていた。接客業を生業にしている人間はすごい、と思う。
その一方で、顔を覚えられるのも当たり前だとも思う。
先月二十歳になったから飲酒初めをと思って選んだ店が、このbar Lantern――ランタン――だった。居酒屋にしなかったのは連れがいなかったからだ。バーの方が一人でも入りやすかっただけで、それ以外の理由は特にない。
とにかくLanternに入ったのはいいものの、何を飲めばいいのかもわからなくて、カウンター席でバーテンダーの人に話し掛けて色々と教えてもらったのだ。あまり人見知りはしない方とは言え、今考えると少し恥ずかしい。けれどそのおかげで少しは酒のことがわかったのだから、いいとしよう。
過去の自分にわずかに顔を歪めながらも店の中に入ると、若い男の店員がにこりと笑いかけてきた。
「いらっしゃいませ。こんばんは、来生<きすぎ>さん」
「こんばんは、南井<みない>さん」
「今日もお一人ですか?」
「あいにくと一緒に来てくれる人がいなくて」
他愛もない話をしながらカウンターの定位置に案内される。エントランスの近くから長く真っ直ぐに伸びて、ある所で直角に近いカーブを描くカウンターの奥の席は、店員の出入りする通路の真横にあるのであまり人が座りたがらない。だからこそ、バーテンや店員に話しかけるにはちょうどよかった。
それに、他の客との接触も少なくてすむから、今日の暢には打ってつけだった。
「こんばんは、来生さん」
そういって席についたばかりの暢に手拭きとナッツの突き出しを差し出したのは、初回に世話になったバーテンの坂崎<さかざき>だ。
「今日もお一人ですか?」
独特な雰囲気を持った坂崎は落ち着いて見えるが、まだ二十代半ばだそうだ。年は五歳ほどしか違わないけれど、坂崎と暢の間には何か決定的な差があるように思われるくらい、坂崎は大人の顔をしている。
「皆それを聞きますね。さっき南井さんにも聞かれました」
「来生さんいつも一人だから、皆気にしてるんですよ。今日は何にしますか?」
「なんか、むしゃくしゃした気分の時に飲むといいやつ、お願いします」
「かしこまりました」
笑みを浮かべた坂崎はすっと奥に下がっていって、すぐに戻ってきた。手にはオレンジ色の液体の入った背の低いカクテルグラスを持っている。
「むしゃくしゃしているんですか?」
さりげない仕種でグラスを渡す坂崎は目に笑いを含めて話しかけてくる。押し付けがましくなく、あくまでさらりと聞いてくるところが妙にプロっぽい。
「ちょっとね、嫌なことがあって」
「そうですか」
受け取ったグラスに口を付けると、きつい炭酸と甘さが口の中で弾ける。予想外の飲み物に坂崎を見遣るとそこには大人の顔があった。
「もっときついお酒が出てくるかと思った」
「むしゃくしゃしてるときにアルコールのきついものを飲むのは、もっとお酒を飲みなれてからにして下さい。きつい酒を楽しめるようになったら、です。その代わり炭酸をきつくしておきましたから、飲めばすかっとしますよ」
「はーい……」
促されるように飲むと、弾ける炭酸とほどよい甘さで少しだけささくれ立った気持ちが落ち着くようだった。そんな暢を見て、坂崎は何も言わずに静かに去っていった。
むしゃくしゃしているのは、昨晩の結婚話だけが原因じゃない。今朝になって重要なことを思い出した暢が未知子と交わした朝食時の会話が、燻っていた暢の気持ちに追い風を吹き込んだのだ。
珍しく部屋の主ではなく、未知子によって準備された朝食をとりながら、暢は切り出した。できれば朝からこんな話はしたくなかったけれど、未知子は学校に行ってそのまま元生園に帰ると言っていたから、朝しか会話の機会はなかった。
『あのな、未知子。その、昨日のことなんだけど、……お前、高校はどうするんだ?』
『……辞めるわ。本当は卒業したかったけど、仕方がないもの』
『そうか』
既に妊娠三ヶ月目ということで、六月の今の時点でそうならば高校を卒業するまでにお腹も大きくなってしまうし、出産もすることになる。休学も選択肢にはあるが、施設育ちの未知子の状況がそれを許すとは考えにくく、そうなれば辞めるしかなかった。
本当のことを言えば、未知子には大学にも行ってほしかった。暢は金銭的な理由から無理だったけれどせめて未知子には、と思っていた。そのための貯金もしていたけれど、どうやらそれは違うことに使うことになりそうだった。
「……はぁー」
暢は心の中でため息をついたつもりだったが、どうやら口からも盛大に漏れていたらしい。近くの席の人がちらりと視線をやってきた。
いけない、と思いつつ、小さくため息をつくのを止めることは出来なかった。
朝の話にはまだ続きがあって、ただでさえ未知子を失うことで気鬱な暢を滅入らせた。
どうやら蓬田側の両親が結婚に反対しているらしい。両親というよりは、どうやら母親が大反対の姿勢を取っているようなのだ。まず第一に未知子が若すぎるのが問題らしいのだが、それよりも大事な息子が現役女子高生にたぶらかされて結婚を迫られていることが大問題だと訴えているようだ。
こっちから言わせればお前んとこの息子にお手付きにされたあげく、高校中退するはめになったんだ、むしろこっちが訴えてやりたいくらいだ、ということになるわけだが、要するに両家とも突然の妊娠、結婚話に混乱しているのだ。
平然としているのは渦中の二人で、周りがぎゃーぎゃー喚いたところで物事がどう変わるわけでもないからこそ、暢は成り行きに任せることにしたのに。まさか頭の固いおばさんが足を引っ張ってくれるとは、どこまで暢を苛立たせれば気が済むのだろう、蓬田家は。
そうは思ってみても、やはり結婚のことは認めてもらいたい。未知子が若すぎることは非難の対象にならざるを得ないが、それでも蓬田一彰と話し合った上で子供を作ったのなら、二人の意思を尊重してやりたい。未知子には幸せになってもらいたいから。
蓬田は許せないけど未知子の幸せは祝福してやりたくて、でも蓬田は……と、堂々巡りを繰り返す自分の脳みそが嫌になって、暢はグラスの中身をぐいとあおって空けた。
今日、店にやってきたのは未知子関係の話で憂鬱のドツボにはまりそうな自分を、少しでも気を反らせるような状態にするためなのだ。
こうなったら飲んでやると、次のカクテルを頼むためにちょうどこちらに視線をやっていた坂崎を小声で呼んだところで、いきなり後ろから肩を掴まれた。
「来生じゃねえ?」
振り返ると、見知らぬ男が立っていた。