もう一度会えたら、その後に 第12話
少しの後悔を抱えたまま、ぼやぼやしているうちに八月は終わり、九月も早々と過ぎていった。まだまだ残暑が厳しいと言っていたのに、十月に入った途端に朝晩に吹く風に涼しさが紛れ込むようになった。
「見事に晴れたなあ」
暑い日が多くても季節は着実に移り変わっていき、一雨ごとに秋らしさが増していく。
一昨日、昨日は秋の長雨よろしく、しとしとと雨が降っていたけれど今朝はすっきりと晴れていた。空にはいわし雲が浮かんでいる。
『本日はお日柄もよく』という挨拶が常套句の、おめでたい席にはぴったりの秋晴れだ。
「何ぼーっとしてんだよ」
親族控室の大きな窓から空を眺めていたら、背後から声をかけられた。
「いや、よく晴れたなあと思って」
「ああ、そうだな。やっぱ俺の日頃の行いがいいからだな」
光琉の隣へ来て、同じように空を見上げた竜琉が恥ずかしげもなく答えた。今日の主役でもあるその身はグレーのタキシードに包まれ、いつにも増してきりりとして見える。
結婚準備でここ数ヵ月はかなり忙しく、体重が削がれてしまったようだが、それが逆に元々しっかりしていた身体をすっきりと見せている。弟の目から見ても、タキシードの上から見える身体の線になんとも言えない色気が乗っている。
調子に乗るのがわかっているから、それを伝える気はさらさらないが。
「よくもまあそんなことを堂々と言えるものだよね」
「何言ってるんだ、本当のことだろ」
何を今更という顔をされて、竜琉に恥じらいを求める方が間違っていたと思い出す。
「そんなことより新郎がこんなところにいていいの?」
「あ? 問題ないない。どうせ支度に時間かかってるのはあっちだし、俺なんかとっくに終わってひたすら待ってるだけ。もう暇で暇で」
「段取りの確認とか大丈夫なのかよ」
「大丈夫、大丈夫。そんなもんどうにかなるって。そういうのは俺じゃなくて式場の人の仕事だから」
あっけらかんと答える竜琉に気負いはない。もう披露宴までそう時間があるわけでもないのに、緊張する素振りもないのは、肝が据わっているというか図太いというか。
こういうところは羨ましいかぎりだ。光琉なら色々と考えてしまってこうはいかないだろう。
「まあいいけど。そう言ってて失敗すんなよ」
「何言ってんだ。人生にハプニングなんてつきものだろ」
さらりとこういうことを言えるのがすごい。はたして三年後の光琉が同じことを言えるだろうかと考えると、自分には何年経っても無理なような気がする。
それでもたしかに竜琉の言う通り、予想もしなかったことが起きることは、ある。
川田と俺が再会したのだって、俺にとっては予想外だったもんな。
ぼんやりとそんなことを考えた瞬間、心の内をわずかな寂寥がよぎったような気がした。
「……それは、たしかにそうかも」
口を突いて出た呟きに竜琉が何か言いたそうな顔をしたけれど、何があったのかは聞かれなかった。
「なんか相談したくなったら言えよ」
「別に何もないよ」
「ならいいけどな」
納得していなさそうな竜琉は訳知り顔をしていたが、そろそろ控室に戻ってほしいと係の人に呼ばれておとなしく新郎の控室に戻っていった。
「紹介してやるって言っただろ。遠慮するなよ」
それでもそう言い残していくのだけは忘れなかったが。
紹介してやるって、……忘れてなかったのか。
どうやら竜琉は正月のやり取りを覚えていたらしい。そういうところが義理堅いというかしつこいというか。
でも、紹介してやるも何も、どうにもなってないんだよなあ。
光琉も式場内の席に移動するように言われたので、部屋を出ながらそんなことを考える。
これから竜琉と麻子の結婚披露宴だというのに、気分はあまり浮上しない。生来こうした華やかな場が得意ではないのもあるが、理由はそれだけではない。
八月に川田とあんなやりとりをしてしまってからずっと、もやもやとしたものが心に巣くっているのだ。
予めもらっている座席表を確認して式場の下座にあるテーブルへ向かうと、両親はすでに席についていた。
「やっぱりいいわね、それ」
光琉がやってくるのに気が付いた母親が目を細めた。光琉が身につけている濃いブルーグレーのピンストライプのスーツに、光沢のあるごく淡い青色の絹のドレスシャツという組み合わせがいたく気に入ったらしく、朝から息子の姿を眺めては満足気な顔をしている。
褒められるのは嬉しいが、いい年になってきた息子に対して、たいした親馬鹿具合だ。
母親にしても、主役の片割れの弟があんまりにもぱっとしないのもどうかと心配していたのだろう。光琉が顔立ちに華がないタイプだからこそ余計に気になっていたに違いない。
席について会場内を見渡すと、五十人程度の招待客は皆席についていた。会社関係や友人など様々な人々がそれぞれのテーブルに固まっているのを見ると、二人の交遊関係が広いのがわかる。竜琉と麻子は大学で出会ったので共通の友人も多くいるに違いない。
つくづく自分とは違う活発な人たちだと思いながら、光琉は段々と盛り上がる披露宴を傍観していた。
挨拶をして回らなければならない両親はともかく、弟の光琉にはたいした役割はない。要所要所での写真撮影は麻子の妹が請け負ってくれているし、やることといえば邪魔にならないようにして、普段は食べないような料理を堪能することくらいしかない。
挙式はすでに親族のみで済ませていて、祝福の言葉はそれまでにも尽きるくらい伝えてある。わざわざ披露宴の最中に主役の二人に伝えに行く必要もなかった。
たまに当たり障りのない会話をしつつも、考えることはこんな場でもすっきりと晴れない自分の気持ちのことばかりだ。
「ふう……」
光琉は息苦しさを感じて、小さく息を吐き出した。
あの八月の夜のことを繰り返し思い出す。
『俺、充分待った』
肩に埋められた体温を、緊張して身体に力が入ったことを、どこか危うく熱を孕んだ空気を、ずっと覚えている。忘れることが、できない。
『連れて帰りたい』
『……いやだ。だって、あれは気持ち良くない』
『わかった……』
口からこぼれたのは紛れも無い光琉の本心だった。
でもそれを、あんな風に伝えるつもりなどなかった。少なくとも正面切って告げる気などどこにもなかったのに、酔った揚句に口から勝手に飛び出てしまった。
『今日は帰ろう。結構酔ってるみたいだし』
あのときの、いつもと同じだったはずの川田の態度が、今思い返すと冷たく感じられて、ひやりと背筋が冷える。
自分は一体どこで何を間違えてしまったのだろう。川田を、傷付けてしまっただろうか。
気になってしかたがない。あの日以来、川田からの連絡がぷつりと途切れてしまったから余計に不安になる。
……どうするのが一番いいんだろう。
どうすればこの状態から抜け出せるのか。それをぼんやりと考えていた光琉は、あたりが暗くなったのに気が付いて意識を現実へと戻した。
いつの間にか披露宴は終盤の花嫁の手紙へと移っていた。家族への感謝を伝えつつも、涙を誘うというよりは、前を向いて竜琉の尻を蹴り飛ばさんが勢いの内容はさっぱりとした性格の麻子らしい。ぜひその調子で竜琉の手綱を握ってもらいたい。
会場が再び明るくなると、いよいよ披露宴も終わりだ。新郎からの挨拶の後に終了のアナウンスがされると、引き出物を手にした人々が会場から流れ出て行く。
光琉は招待客が皆出て行ったのを確認してから席を立った。
外では新郎新婦とその両親が招待客の見送りをしていた。土産の手渡しと一人一人との挨拶のために列ができていて、当分は終わりそうにない。片付けを手伝おうにもまだそんな状態でもない。
なんにもできることがないな……。
あまりの自分の役立たずぶりにため息をついた光琉は、ひとまず身だしなみを整えるためにトイレに向かった。
混んでたらやだなあ。
この後、時間をあけて同じホテルの上層階にあるカフェ&バーで二次会が行われる予定になっている。披露宴の招待客の中にも参加する人は結構いるだろうから、そういう人たちと顔を合わせるのはなんとなく気まずい。
相手に顔をばっちり覚えられているわけではないから、そんなに気にすることもないのだろうが、気付かれた場合に変に気を使われるのは疲れるから避けたい。
自分でもどれだけ人と接するのが苦手なんだと思いながら、ドアの設置されていないタイプの入口から、トイレへ続く通路を進んで行く。
「……顔が赤い」
ふと中から人の話し声が途切れがちに聞こえてきた。
「そんなに飲んでないよ。ワインを二、三杯くらいで」
「あんた弱いんだから、もうこれ以上飲むな」
「大丈夫だよ。正体なくすほど酔っ払ったりしない」
「そうじゃなくて、あんたが酔うと、周りの奴らが変な気を起こすだろ」
その言葉が聞こえたと同時にトイレにたどり着いた光琉は、手洗い場の前で二人の男が顔を寄せ合っている場面に遭遇してしまった。今まさにキスをしたところだったのか、これからキスをするところだったのかという顔の近さに、ぎょっとして思わず足を止めてしまった。
「お、落っ」
通路の床が毛足の長い絨毯だったせいで、人がやって来るのに気付かなかったのだろう。光琉の姿に気付いた背の低い方の男が、慌てて身を離そうとした。けれどもう片方の大柄な男の方は相手の背にやった手を離そうとはしない。
ぱっと目に入った背の低い男の顔がひどく綺麗で、酒でほんのりと染まった頬が妙に色っぽいのに目を奪われそうになる。
やばいっ。
光琉は慌てて視線を引き剥がして足を進めた。ここで立ち止まる方が失礼のような気がしたので、軽く会釈だけして二人の脇を通り過ぎる。
けれどこのまますぐ近くの空間に留まるのも気まずくて、光琉は反射的に一番奥にある個室に逃げ込んでいた。
ドアの閂を勢いよく通すとガチャンと派手な音がした。たぶんあの二人にも聞こえただろう。
びっくりした……っ。
光琉は蓋を閉めたままの便座に浅く腰掛けて、自分を落ち着かせるように頭に手をやって大きくため息をついた。
まさかこんなところであんなものに遭遇するなんて、想像もしていなかっただけに度胆を抜かれてしまった。