清想空

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open05.04.12
もう一度会えたら、その後に 第9話
三月も後半に差しかかると、年度末と新年度に向けての準備でにわかに慌ただしくなってくる。
光琉も例にもれず、他課の新人の受け入れ準備に借り出されて、自分の雑事を片付ける時間を食いつぶされてしまっている。おかげでここのところは残業続きだ。
仕方のないこととはいえこうも仕事が溜まっていくと、文句の一つでもこぼしたくなるのが人間というものだ。
せめてもの救いは、添島<そえじま>の課には新人が配属されない決まりなので、四月からの新人教育がないことだ。うちの課の営業事務は光琉一人なので、そうでなければ今頃パンクしていたに違いない。
……そうは言っても俺はまだましな方だよなあ。
手にした紙パック入りの野菜ジュースを吸い込んで飲み込み、大きくため息をついた光琉は周囲に視線を振った。
三月と言えば年度末。三月決算の会社ならば最後の駆け込みとばかりに、営業が駆けずり回る季節だ。元々二月から三月にかけては新年度に向けた動きで受注も増える時期なので、全社的に繁忙期でもある。
ということは、営業をサポートする営業事務も当然忙しくなる時期というわけで。繁忙期と翌年度への準備が重なるこの時期は、毎年どの課の営業事務も慌ただしくしている。人によっては死相が出でもおかしくない有様になっていることもある。
添島率いる営業第五課は新規顧客獲得がメインなので、他の課とは少し立ち位置が違う。仕事内容も異なってくるので単純な比較はできないが、それでも添島が残業時間が長くなりすぎないようにうまく調整してくれているので、光琉の負担はこれでもかなり少ない方だ。
任される仕事の量にもよるが、意外とこういう時に上司の力量が試されるし、その能力の差が判然としてしまう。そういう意味では光琉は良い上司に恵まれていて、運が良かった。
ちなみに隣の課の出口は添島とは違った意味で切れ者ぶりを発揮している。
「特別な理由もないのに一時間を超えて残業したやつには張り手くらわせるからなー。い、っ、さ、い、手加減しないから死ぬ気で時間内に終わらせろよー」
と軽く笑いながらも、目を鋭く光らせて課員の尻を叩いている。言われた課員の方は顔を青くして、まるで命を懸けた試練に臨むような表情でその言葉を聞いている。
実は課長になる前のことだが、出口は仕事上のトラブルで怒り狂い、金属製のキャビネットに張り手をくらわせて扉を盛大にへこませたことがある。
その場面を目撃した周囲の人間には戦慄が走った。
無理もない。拳でもなく、足で蹴ったのでもなく、張り手で、アルミならともかくそれよりも強度のある金属をへこませるなんて、普通じゃない。相当の馬鹿力だ。
しかもこの話には続きがあって、出口の張り手が原因でキャビネットの扉が開かなくなってしまったのだ。仕方なく業者を呼んで見てもらったのだが、扉への衝撃で強く引っ張られて蝶番が歪んでしまったことが原因だとわかった。
固く締められている蝶番を歪ませるほどの力がそこに掛かったという事実に、さすがの業者の人も
『こういうケースは初めてです……』
と口元を引きつらせていた。
それ以来、出口の張り手、というより出口自身が恐れられるようになった。
昔からいる人に話を聞いたところによると、出口はそれ以前にも脚力で一騒動起こしたことがあったらしく、一時期は歩く備品破壊兵器とまで呼ばれていたらしい。
出口が本気で人間相手に張り手をするとは思わないが、脅しの効果は絶大だ。隣の課からはいつになく鬼気迫った勢いを感じる。
おかげで業務効率はかなりいいようだ。もっとも出口の課の営業は
「ありがたいんだけどプレッシャーが……」
とこぼしていた。
それでもよくできた上司に感謝する気持ちは同じらしく、課員は皆元気そうだ。
まあ、営業などという職種は多少なりともタフでないと務まらないものなのだろうが。
少なくとも光琉には精神面でも、体力面でも、営業は向いていない。
そんなことを考えながら、今日中に片付けると自分で決めたところまでは作業を進め、そこから先は翌日に回すことに決めた。
ざっと机周りを片付けて帰り支度をし、七時を少し回ったころにフロアを後にした。
同じ課の営業三人は、今日は全員外出先から直帰の予定なので、残っていたのは光琉だけだった。
「ふー」
エレベーターがやってくるのを待ちながら大きく息を吐き出し、肩の力を抜く。
気を抜いたせいなのか、どっと疲れがのしかかってきた。
これでも早く帰れた方だが、ここのところの疲れが完全にはとれていないせいなのか、肩と背中のあたりが妙に重い。
どうやら自覚している以上に疲れが溜まってきているらしい。元々が人疲れしやすいたちなので、そろそろ気をつけないとまずいかもしれない。
とにかく一段落するまではちゃんと身体を休めるようにしないとなあ。
仕事よりも体調の維持を一番に考えることが大事だと肝に銘じながら携帯電話をチェックすると、いつもの川田からのメールが届いていた。
もうすぐ帰れるから一緒に夕食をどうかという誘いにほんのわずかの間考え、光琉はさっさと断りのメールを送ってコートのポケットに携帯電話を放り込んだ。
川田からのメールは多少頻度が低くなったものの、相変わらずまめに届く。初めこそ誘われることが苦痛ですらあって、断る理由を必死に探していたけれど、今ではさほど気にしなくなった。
あまり認めたくないが、一緒に初詣に行ったときから川田に対する心理的なハードルが少し下がった気がする。
川田は誘いを断ったからと言って、すぐに機嫌を悪くするほど心が狭くはないようだったし、基本的には無理矢理に光琉を付き合せようとするつもりはないようだった。
……まあ、それでもたまに強引な手段に出ることがあるとういことは、覚えておく必要があるけれど。
理由を必死に探してまで頑なに断ろうとしなくてもいいかと、今は考えるようになった。むしろ気が向いたときは、夕食くらいならいいかなと思うこともある。
もちろん『食事の後のこと』については受け入れるつもりは毛頭ない。
そういう意味では心理的ハードルを下げていいのかという疑問もあるが、今は考えないようにしている。考え始めると状況に流されまくっている自分が情けなく、恥ずかしく思えるからだ。
ただ、このまま友人としていい関係を築いていけるのではないかと、期待する気持ちが心の奥底にあるのも事実で。
今まではかつてのクラスメートという感覚の方が強くて、どこか一線を引いていた部分があった。言ってみれば知人以上友人未満のような感覚で、そこまで親しいというわけでもなかった。
でも高校生の頃の光琉は、明るくて、格好よくて、クラスの人気者だった川田に憧れのようなものを抱いていた。
高校を卒業した後も忘れた頃に川田を思い出しては、今頃どうしているのだろうとぼんやりと考えることもあった。
そのくらいには心に残っていた人との距離が縮まるのは、今更ながらでも純粋に嬉しいし、正直、少しだけ心躍る展開でもある。
我ながら現金なものだ。
こういうところが流される原因だよな、と思いながらため息をついた光琉はやってきたエレベーターに乗り込んだ。
一階でエレベーターを降りて、守衛に挨拶をしてビルを出た。
三月の半ばを過ぎても夜はまだ寒い。コートの襟を寄せながら光琉は息を吐き出した。
「はーっ」
駅に向かって早いテンポで歩いていると、コートのポケットの中で携帯電話が振動した。取り出してみると案の定川田からの返信だった。
わかったという簡潔な返事に、『身体には気を付けてな』という一文が添えられている。川田は相変わらずこういうところがスマートだ。
そういう川田も今は忙しくしているのではないだろうか。初詣に行って以来、川田とは会っていないので実際のところはわからないのだが、たしか文具メーカーの営業をしているのではなかったか。
聞いたのが例の同窓会のときだったような気がするので、それが正しい情報かはわからない。あのときのことはできれば忘れてしまいたいので、記憶を掘り返していないのだ。
だが、夕食をどうかとメールを送ってくるくらいだから、川田は元気なのだろう。
対照的に光琉の方は年明け後の慌ただしさが一段落した途端、気の緩みに足を取られて風邪をひいた。喉の痛みから始まったその風邪は、アレルギーの気があるせいかひどい鼻風邪に発展し、諸症状が治まったのは二月も半ばになる頃だった。
風邪の直り際は気を付けないと、とおとなしくしているうちに仕事が一番忙しくなる月末と月初に突入してしまった。そして気が付けば三月の半ばに差しかかろうという時期になってしまい、今の状況に至る。
互いに仕事を持つ身なので、少し忙しくなれば予定も合わなくなる。
そんなわけで川田とは約三ヵ月の間会っていないのだが、それでも特に不都合なことはない。
むしろ光琉としては会えずにいてよかったと思っている。
初詣のときの自分を引きずらずにすんだからだ。あの直後は寝不足もあってふわふわとした気分のまま流されてしまったが、時間を置くことで気持ちも頭も落ち着いた。
少なくともあれは一時的なものだった。
それがわかってほっとした。もし、あの後も頻繁に川田に会っていたら事態がどう転んでいたか、正直、わからない。もしかしたらさらに流されていたかもしれない。
そこのあたり、光琉はあまり自分を信用できない。川田は憧れの人でもあったので、強く出られるとついつい流されてしまいそうだ。そんな自分が少し怖い。
どのみち川田も忙しいのなら、もうしばらくは会う機会はないかもしれない。四月は新年度で慌ただしいのが普通だから、川田が何か言ってくるならゴールデンウィークあたりじゃないだろうか。
じゃあ四月は仕事に専念していられるな、と無自覚にひどいことを思いながら、光琉は家への帰途を急いだ。