清想空

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open05.04.12
その瞳に映る人 第8話
――よくもまあ、あんな無茶な食生活で一ヶ月ももったものだ。
ベッドの中から自室の白い天井を見ていた二科は、このひと月あまりの自分を思い返して大きく息を吐いた。
ひと月の間二科を支えていたのは、倒れてなるものかという意地だけだった。
七月の半ばから、日に日に悪くなる顔色と少しずつこけていく頬に、同僚からも大丈夫かと声をかけられることが多くなっていた。ただでさえ細い身体ががりがりになってしまうのでは、と普段はいささか遠巻きに二科を見ている女子社員にまで声をかけられて心配された。
それには大丈夫と笑って答え、月末が近いから倒れるわけにはいかないと、本当にその心意気だけで忙しさを乗り切った。
けれどその後、二科はいろんなことをないがしろにしていたつけを払わされる羽目になった。
月の半ばに差し掛かろうという週末が近くなったある日、帰宅した二科は四十度近い熱を出して倒れてしまったのだった。
病院に行くのもだるくて叶わない程の熱を出すのは、一体どれくらいぶりだろうか。少なくともここ数年でここまで本格的な熱を出すようなことはなかったはずだった。
それだけ身体が参っていたということなのだろう。
簡単には引きそうにない熱に、そんなに休んでられないのになあと思う。せめてもの救いは、週明けから会社が盆休みに入ることだろうか。あまり周囲に迷惑をかけずに済むのは不幸中の幸いだ。それを喜んでいいのかは微妙な線だが。
倒れて寝込んでいることは、会社関係以外では村野にだけ伝えてあった。
村野とは三月の彼の誕生日会以来連絡をとっていなかったのだが、ちょうど倒れる直前に元気にしてるかと暑中見舞い代わりのメールを寄越してきていた。それに返事するついでに報告だけしておいた。
口が裂けても元気とは言えない状態だったのもあるが、なにより村野には嘘をつく必要性を感じなかったからだ。
村野からは大丈夫なのかと心配する返事が来ていたが、どうにかなるだろうと返しておいた。
そうして二科はひたすらベッドに横たわっていたのだが、週が明けても熱は下がらなかった。
いい加減に冷蔵庫に貯蓄していた栄養補給食も切れてしまうし、このまま熱が下がらずにずっと一人で寝込んでしまったらどうしようか。
日が経つにつれて増してくる不安を否定できずに、二科は天井を見つめた。
窓の外から聞こえてくる蝉の声以外の音がないような静けさが、少しずつ身体を侵食しているような気がする。身体の細部まで寂しさで埋まってしまったら、自分はいったいどうなってしまうのだろう。
そんなよくわからないことを考えてしまうくらいには、頭の中は熱で滅茶苦茶になっている。病気のときに気が弱くなるというのは本当なのだろう。
ぼんやりとしていた二科は、突然鳴りだした大きな音にびくりと身体を揺らした。
「!」
聞きなれない音はベッドサイドに置いておいた携帯電話の着信音だった。
どきどきと心臓の早鐘が収まらないまま携帯電話を手に取る。登録していない番号からの着信のようだ。画面の表示を確認してみるけれど、やはり見知らぬ番号からだった。
滅多にこういうことはないので出るべきか一瞬迷ったが、もしかしたら何か緊急の用事かもしれないと思い直す。
「……もしもし」
掠れた声が出た。ちゃんと声を出すのは実に三日ぶりのことだった。
『あ、二科さん?』
聞き覚えのない声が耳にするりと入り込んでくる。スピーカーを通しているせいもあるが、熱であまり頭の回らないせいもあって、相手が誰だかわからなかった。
ぼんやりとする頭では何を考えてもだめだ。
二科はとりあえず直球で返した。
「誰」
『俺、落』
ぷっと吹き出すような音がした後に、笑いを堪えるような声が滑り込んでくる。短い名乗りの文句にオレオレ詐欺かと考えたけれど、熱のせいでいつものようには反応できなかった。
二科が口ごもっているうちに落が勝手に話を進めていく。
『あんた相当熱でやられてるな』
「……なんで僕の番号知ってるんだ」
『熱のことは村野に聞いた。やっぱあんたいつもと違うな』
普段の二科ならわざわざ落に言われなくとも察することができたはずだった。
落が二科の情報を仕入れるとしたらその流通経路にいるのは村野しかいないはずなのに、そんなことも頭から抜け落ちてしまっている。相当重症だ。
それを察したのだろう落は楽しんでいるような声音で続けた。
『ああ、まあ、とにかくさ。ここ開けろよ』
「……ここって?」
一体どこのことだと問いかける二科に落はあっけらかんと答えた。
『玄関のドア。今あんたんちの前にいる』
「……は?」
何を言っているんだこの馬鹿は。
そう思ったきり、他に何も言葉が思い浮かばない。
ただでさえ悪い頭の回転が更に鈍くなるような発言に絶句していると、ドアを開けないとそれなりの手段を講じると言われてしまう。
そう言われると落が何か突拍子もないことをしそうな気がして、それはさすがに困ると、二科は急いで起き上がった。立ち上がるだけでくらりとする身体を何とか歩かせて玄関へと向かう。
思った以上に身体が重い。気持ちに身体がついていかず、のろのろとしか動けない。寝室から玄関に行くだけなのに移動にはやたらと時間がかかった。
玄関のドアの前に立つ頃には、もう早く横になりたいという気持ちになっていた。それでも身体を玄関の壁にもたれかからせるようにしてドアをわずかに開けた。
二十センチメートル程度の隙間から、しばらくの間見ていなかった顔がのぞく。
「なにしに……っ」
弱々しい二科の問いかけには答えず、落がぐいっとドアを引いた。ノブに手を掛けたままの二科の身体は引っ張られるまま、落へと倒れこんでしまう。
どっ、と勢いを殺せずにぶつかったものの、落はよろけることもなく二科を胸で受け止めた。そのまま動けない二科の額に手を当てて、熱が高いなと呟く。
抱きこまれるような体勢と感触に、不覚にも二科は安堵を覚えてしまった。
落の腕は力強く、二科は促されるまま部屋へと押し戻された。
 
 
 
もぞりと布団の中で身動きをして目が覚めた。
布団が熱い。足蹴にするように剥げば、クーラーで冷やされた部屋の空気が二科の汗ばんだ肌に心地良かった。
パジャマの背中の部分に風が当たるとどきりとするほどひんやりとする。大量の汗を吸っているせいだろう。それが少し気持ち悪いけれど気分はそう悪くなかった。
久しぶりに心地良く眠れた気がする。
きちんとした暖かい食事を満足に取ったからだろうか。かなり深い眠りに入れたようだった。
近くの時計を確認すれば二時間ほど眠っただけだったけれど、頭は先ほどまでよりは少しだけすっきりしている。
額に張り付いている長くなりすぎた前髪をかきあげて二科は起き上がった。もう起き上がるだけで頭がくらくらとすることもない。
そのことに安堵の息をついた二科は渇きが酷い喉を潤そうと、サイドテーブルに置いてあったスポーツドリンクを手に取った。
「……ふぅ」
勢いよく飲み干して一息ついたところで部屋の中央に洗濯物が干してあるのが視界に入って、二科は思わず苦笑いを零した。落がお節介ついでに溜まっていた洗濯までやったに違いない。
他人にそこまで面倒を見られるのはさすがに恥ずかしいけれど、正直助かった。
会社から帰宅してそのまま高熱を出してベッドへと潜り込んだような状態だったので、洗濯すべきものはすでに三日ほど放置されていた。この時期に汚れ物を溜め込んでおけば目も当てられないことになる。落の行為はありがたく思う。
けれど複雑な心境だ。
昼前に突然訪ねてきた落は、見舞いだと言って何やかやと二科の世話を焼いてくれた。
二科を抱き込んだまま強引に部屋に上がりこんだ落は、二科の現状を確認して、見たこともないような顔で呆れるだけ呆れた。阿呆だろうと散々言って二科を叱った。
ろくな食事もとっていない。薬も飲んでいない。おまけに病院にも行っていない。――正確には家に常備薬がなくて薬を飲みたくても飲めず、病院は盆に突入して外来が閉まってしまった上に、そもそも病院に行くだけの体力がなくて行けなかったのだが。
その上で連日の猛暑の中、部屋の窓を開けただけで寝ていた二科の対応はかなり酷かったらしい。
あんたは本当の阿呆か。
そう言いつつも見舞いだと言った通り、弱っている二科に落はとても優しかった。
二科が過ごしやすいようにと1DKの部屋を冷やし、薬を飲むためにも体力を戻すためにもきちんとした食事を取らないといけないと言って、昼食を作ってくれた。その昼食に出された鰹だしベースの卵粥がとてもおいしくて、料理なんかしそうにない野性的な外見とのギャップを意外に思った。
それ以外にも、病人の看病に手慣れているのか、あると便利だろうと、落の家に余っていたという解熱剤や、スポーツドリンクなどの飲料水、ヨーグルトなど病人でも軽く食べられるようなものまで持ってきていた。さらにはしばらくの間食べられるようにと細かく刻んだ野菜がたっぷり入ったスープまでこしらえてくれたのだ。
二科にしてみればありがたいことこの上ないのだけれど、だからといって諸手を上げて喜べるような状況でもない。今までの落の所業を考えれば、二科にとってこの状況はむしろまずいのではないか。
自宅の場所まで知られて、私生活にまで踏み込まれて、ますます二科の立場が悪くなるだけなのではないか。
そう思うけれど、どうにも今は判断ができなかった。
――落が優しいのだ。br>
初めは、この男のことだから見舞いにかこつけて何かしに来たのではないだろうかと疑った。どうしても信用ならないという目で見てやった。けれど当の本人が笑い飛ばしたのだ。
『俺だって三十を超えた大人だぞ。見舞いに来ただけだ』
真摯なまでの態度での看病は心地良かった。
食事の後はゆっくり休めと言われて、ベッドに寝かしつけられた。落の大きな手に髪を撫でられるのがとても気持ちよくて、促されるように二科はうっとりと瞳を閉じてしまった。
触れる手から優しさが流れ込んでくるような仕草に、もっと触れていて欲しいと望んだ。二科をベッドへと押し込んですぐさま帰ろうとした落を、二科自身が引き止めた。
落の見せる優しさに身を委ねてしまっている。
人恋しかったせいだ。
ずっと一人で。弱っていて、優しくされて、またすぐに誰もいない空間に取り残されるのは寂しすぎた。同じ空間にいて、そのぬくもりをもう少しの間だけでも感じさせて欲しいと思った。
落は二科の気弱を見抜いたのか。ちょっと笑って、それからため息を一つだけついて、もう少しとどまることを了承してくれた。
子供じみたわがままだ。それでも久しぶりに触れたぬくもりを手放したくなかった。
この数日間、外出できず寂しさと孤独感にまみれて、二科も精神的に参っていたのだろう。まるで置き去りにされた子供のようだ。
二科はそんな自分の有様に一つため息をついて、ベッドから抜け出た。