清想空

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open05.04.12
その瞳に映る人 第1話
二科が主担当の仕事は月末月初に繁忙のピークを迎える半面、月の中旬は閑散とするのが特徴だ。そのおかげで月の頭の忙しさを切り抜ければ、その後しばらくは残業せずに退社できる。
帰れるときは早く帰る主義の二科は、そういうときはここぞとばかりに他の人に先んじてフロアを後にすることがほとんどだった。
今日も定時の十八時を少し回った時間にはさっさとオフィスを出て、少々混んだエレベーターに乗り込んだ。
二科の勤める会社は決して大きいとは言えない規模だが、オフィスの入っているビルはそれなりの大きさだ。立地も都心の中心地とあって、結構な数の企業が同じビルに入っている。電車のアクセスもいいので気に入ってはいるのだが、出社や退社の時間にエレベーターが混むのは悩みの種でもあった。
外に出ると初夏の匂いを運ぶ風が二科を迎えた。
少しひんやりとしているのはまだ五月の半ばだからだろうか。背広を着ていて丁度いい気温だった。
「あんた二科紗だよな」
いささか強い風に乱された髪を撫で付けて歩いていた二科は、ふいに正面から話し掛けられて足を止めた。
二科よりも大分背の高い男が立っていた。行き過ぎた筋肉質という感じは受けないが、しっかりと筋肉の付いた厚い身体。顔はまあそれなりだが、綺麗に整っているというよりは少し野性味の方が強そうな、あくの強い顔。
見たことのない顔に二科は思わず首を傾げた。こんな男に見覚えはない。
男の方は二科のことを知っているようだが、そもそも普段から何をしていても二科は目立ってしまうため、一方的に名前や顔を覚えられていることは多い。こうやって話しかけられることもままある。とは言うものの、夜になりきる前の時間に呼び止められるのは珍しかった。
不躾な質問には答えず、じろじろと眺めてくる視線に無遠慮な視線を返す。目の前に立ち塞がる男は二科より少し歳下のようだが、何とも言えない粗野な雰囲気が滲み出ている。しかも平日のこの時間にも関わらず、服装は至ってラフなものだ。
嫌な感じを覚え、二科は眉をひそめた。こういうのはあんまり関わりあいたい手合いではない。
二科は性生活こそ品行方正とは言えないが――生憎とそれは本人が一番よくわかっている――、基本的には品のある人間だと自覚している。だから周りに集まるのも自然と品の良い人間が多くなるし、二科自身、下品な人間は近寄らせなかった。
勿論、寝る男を選ぶときだって気を使う。いくら快楽に溺れるためでも自分を安売りする気は毛頭ない。下品な男に触れられて身体を遊ばれるなんて嫌に決まっている。想像だけでも鳥肌が立つ。
そんなことになるくらいなら、身の内に沈めている兄への想いと心中する方が数段ましというものだ。
「返事がないということは肯定だよな」
怪訝な顔をする――というよりも内心の嫌悪が現れていたかもしれない――二科の様子を気にかける風でもなく、男が言葉を紡いだ。
案外頭が良いらしい。わずかの間に判断するだけの能力はあるのかと、変なところで感心してしまう。
仕方なく二科はそうですが、とだけ返した。
男は一体何の用があって、わざわざ会社帰りの二科を待ち伏せていたのだろうか。いや、そもそも何者なのか。
考えを巡らせるものの、二科の素っ気無い返答に対して、男もその疑問の答えとなるものは寄越さない。
「あんたそうやってると雰囲気変わるな。普通のサラリーマンに見える」
男が目を眇める。妙に色っぽい仕草だった。
同時に、発せられた言葉に含みがあるような気がしたが、二科は敢えて自分からは発言しなかった。何を喋っても言質をとられそうな気がしたのは、ほとんど直感のようなものだった。
いっそのこと、このまま何事もなかったかのように通り過ぎて帰ってしまおうか。
そんな二科の心中を察したわけではないのだろうが、一見爽やかそうな笑みを浮かべた男が、逃げる隙を与えないと言わんばかりにぐっと顔の距離を縮めてきた。背丈があるからだろう。大分背を丸め覆いかぶさってくるような格好だ。
「淫乱な男にはとても見えない」
二人にしか聞こえないように囁かれた言葉は、けれどその声の大きさに反して爆弾に等しい威力を持っていた。
反射的に身体が逃げようとしたが、男に両腕を掴まれて阻まれる。強引な腕だ。逃げ出そうとしても二科では抗えない強さだった。
二科は確かに、会社にいるときは少し顔の綺麗なだけの男を装っている。普段は色素が若干他人よりも薄い髪を適当に遊ばせているが、仕事のときはスーツから浮かないようにきちんと撫で付け、前髪の分け目すら変えて普通のサラリーマンに紛している。会社で揉め事や厄介事、特に男絡みのそれを起こさず平穏な毎日を過ごすための、二科なりの武装だった。
まるでそれを見透かしたような男の発言に動揺して、一瞬とは言え逃げ出そうとしたことが悔しくもあり、二科は間近にある男の顔を思い切り睨み付けた。それを見た男はにやりと口角を上げさらに耳元に唇を近付けた。
「あんた自分の兄さん好きなんだって?」
「っ……このっ」
あまりのことに大して強くもない腕が出そうになったが、男に押さえ付けられたまま動かせない。その代わりに、呪い殺せそうなほどの気持ちを込めて男を睨みつけた。
目が熱い。できることならこのまま鼻先に噛み付いてやりたいくらいだ。
「おっと。会社の人に見られるぜ?」
今にも暴れだしそうな二科の顔を覗き込むようにしてくる男の強気な言葉に、ぎくりと身体が強張った。
今日は金曜日だ。二科の同僚たちもいつもより早く帰り支度をするだろう。しかもこれからの時間は退社する人が一番多い時間だ。会社から離れていないこの場所で、男との秘め事めいた雰囲気を見られれば、それだけで痛い腹を探られることになる。
それだけは嫌だ。
そう思った時点で二科の負けだった。抵抗らしい抵抗はできなくなった。
周りを歩く人々があまりにも距離の近い二人を一瞥して、流線型のように避けて通っていく。
大人しくなった二科を見て男は満足そうに笑う。
「あんたが利口で良かったよ」
そんなことを言われたって嬉しくも何ともない。
卑劣ではあるが、相手を追い詰めるには十分なやり口は狡猾で、男はそういう意味でも非常に頭が良いのだろう。しかしそれに乗せられて罠に嵌まってしまった自身が二科には何より腹立たしかった。
くそ。こんな得体の知れない男に。
思えば思うほど悔しさがこみ上げてきて、二科は唇の内側をきつく噛んだ。
男はそんな二科を面白そうに見つめると、無駄な抵抗はするなよと忠告してくる。
「うっかり口が滑るか、手が出るからな」
言外に、外道であることをばらされるか、痛い目に合うぞと脅されて、二科は綺麗な口元を歪ませて口汚く盛大な舌打ちをした。男はまた面白そうに眉を跳ね上げる。
「さて、話がまとまったところで行くか」
どの口が言うのか。一方的な脅迫で二科を服従させたというのに。
何一つとして納得していなかったが、二科はさっさと歩き出した男に引き摺られるようにして連れられていくしかなかった。
どこへ、とは問いかけなかった。男もどこへ行くとは言わなかった。
どうせこういうときの行き先は相場が決まっている。ましてや相手が二科を淫乱だと知っている男であれば尚更で、想像がつきすぎて逆に面白みがないくらいだ。
案の定、二科が連れ込まれたのはホテルで、二科はあまりにも予想通りの展開にふん、と鼻を鳴らしてやった。
ただ予想とは異なり、ホテルはいわゆるその手の安いものではなく、結婚式場まであるようなきちんとした、格式のあるホテルだった。しかもダブルの部屋が予約されていた。それだけで男が計画的で、やはり頭が良いということが知れた。
さらに残念なことに、ここに着くまでに男の体格と腕力から力技で逃げ出すことは到底無理だともわかってしまっていた。
どうすることもできないまま部屋に押し込められるなり、この先がいとも簡単に予想できてしまう二科は再び聞こえよがしに大きく舌打ちした。
それを聞いた男がまた笑ったが、それを認識する前に二科は後ろ手を取られて呻いた。
「いっ……た、何するっ」
「あんた案外気が強いんだな」
「……ちっ」
「しかも結構口汚い」
両腕を強引に後ろでまとめられ動きを封じられた。男の楽しそうな声に睨み付けようとしても後ろにあるその顔を見ることすら出来ない。
くそ、この野郎っ。
普段なら心の中でも滅多に出さない悪態が次から次へと湧き出てくる。
口汚く罵ってやろうとしてようやく、二科は男の名前も知らないことに気付いた。
「というか! お前誰だっ。僕は、名前も知らないやつとやるつもりはないっ」
もはやこの状況で猫を被る必要もなく、二科は腹立ち紛れに声を荒げた。その勢いに引くかと思った男は、逆に喉を鳴らして身体を寄せてくる。
右手で器用に二科の両腕を戒めたまま、もう片方の手を背広の内側に入れた。そのまま二科の左の乳首を探し出してシャツの上からしっかりと引っ掻く。
「俺は、村野のお友達だよ」
「……んっ」
望む、望まざるに関わらず、ぞわりとした痺れが走って鼻にぬける息が漏れた。
胸は弱い。弄られるだけで震えが起きて下半身の熱へと直結する場所だ。おまけに背後から顔を寄せた自称村野の友人は二科の耳朶を甘噛みし、耳の付け根の柔らかい部分を濡れた唇で愛撫する。
「ん、う、……ふ」
思わず声を漏らした二科に笑いを滲ませた男はそのままうなじへと唇を移動させ、生暖かい唇で頚椎の上の薄い皮膚に吸い付く。左胸では太い指が二科の乳首を捏ねくり回していて、快楽に弱い身体は刺激に溶けかける。
このまま好きにされてたまるかと、二科は力を振り絞った。
「あ、ん、はっ……だれが、お……まえなん、かと、寝る、かっ」
「……だから?」
「あ、くそっ」
二科の抵抗を楽しむような声音の男は、胸で遊ばせていた手でネクタイを解き、背広とワイシャツのボタンを外していく。さらに腕を拘束したまま、うまい具合に背広ごとシャツを剥き取ってしまう。
あっという間に半裸にされた二科はドアの前から引きずられて移動し、部屋の奥のベッドへと乱暴に放り投げられた。