その瞳に映る人 第12話
少しアルコールを入れすぎたか。
視点がわずかに揺らぐような症状が出始めた。目的の店の前にあるガードレールに腰掛けていた二科は手にしたカクテルを飲むペースを少し落とした。
左腕にはめている時計を確認すると、時刻はちょうど午前零時になろうかという時間だった。
「十二時か……」
落の勤め先であるバーの閉店時間だ。
九月に入ったとはいえ今年は残暑が厳しい。歓楽街の空気は深夜になっても温く、涼しくなる気配がない。風がないせいでどこか空気が淀んでいて余計に蒸し暑く感じられる。
今日は熱帯夜になるのかな。
そんなことを考えながらまだ中身の残っている手元の缶を小さく揺らす。
週末とは言え、普段ならばとっくに就寝している時間――ほんの数ヶ月前までは誰かとベッドを共にしていた時間だった――だが、今日は特別だ。
落の仕事上がりを待っているのだ。
こんな時間まで時間を潰すのはそう大変なでもなかった。明日の土曜日に出社しないですむようにするという名目で、月初に押し寄せてくる仕事と先月一週間半に渡って休んだせいで後回しにされていた雑事を大方片付けてきたのだ。
先月倒れた記憶がまだ鮮明なのか、同僚たちにはあまり遅くまで残って無理をするなと窘められたが、身体の調子はいたって良いので大丈夫とだけ返した。もちろん無理はしないと約束した。
そうして、あとは週明けに処理するのでも問題ないところまで仕事を片付け、会社近くの店でゆっくり食事と少量の酒を楽しみ、大分遅くなってから店を出た。そこから自宅とは逆方面へ向かう電車に乗ってここへ足を向けた。
同僚に答えた通り、食事にも睡眠にも気を付けているので身体の調子はいい。ただ、身体に溜まっていく熱は日増しに温度を上げているかのようで、誰かに背筋をつつかれるだけでも快楽に走り出してしまいそうだ。そんな身体をこれ以上抱えているのは辛かった。
だから責任をとってもらうために、落を捕まえにここに来たのだった。
教えられた店には迷うこともなくたどり着くことができた。時間に余裕を見ていたせいで閉店時間よりも三十分以上早く着いてしまい、迷った二科は近くのコンビニエンスストアで缶入りのカクテルを買って、店の前で落が出てくるのを待つことにした。
どうせ店じまいの作業だなんだかんだとやることはあるだろうし、そうなると最低でもあと一時間は待たされるはずだった。その間、ただ待っているだけというのもどうにも落ち着かず、気を紛らわせるためのアルコールが欲しかったのだ。
ガードレールに腰掛けながらゆっくりとカクテルを飲んでいると、ちらちらと視線が向けられる。店の前で酒を飲んでいるのが目立つのだろう。
それに、と二科は視線だけをそれとなく周囲に振った。
明らかに二科をそういう視線で見ている人間がいる。
ただでさえある種の人間に目を付けられやすいのに、数時間に及ぶアルコール摂取でうっすらと赤くなっている顔が余計に目を引く要素だというのは知っている。
下手に気を抜けば付け入る隙を与えることになるので、二科は視線に気付かない振りを決め込んだ。そうしていれば相手もこちらに近付いてはこないだろう。
そうこうしているうちに手元の缶が空になった。時刻は午前一時近くになっている。
あと少し待てば出てくるだろう。
興奮しているせいか、それとも身体が熱いからだろうか。遅い時間なのだから眠くなってもいいのに、いやに目がしっかりと醒めている。
なぜだろうと思いながらふと足元に視線を下ろしたところで、頭上から声が降ってきた。
「……あんた、なんでここにいる?」
訝しげな低い声。
待っていた落の声だった。
「落……」
顔を上げるとアルコールのせいだけでなく目が潤むのがわかった。
声を聞いただけで身体が溶けそうな感覚に襲われる。今すぐにでも走り出せそうなほど、気分が高揚した。
立ち上がった二科は居ても立っても居られない気持ちに駆られて、落の身体に体当たりするように縋っていた。
「そういえばお前、そのお腹のところ、赤くなってるけど大丈夫なのか?」
「……あんたなあ、今更それを言うか」
ジーンズを履いて上半身は裸のままの落に、言うタイミングはもっと前だろうと少しばかり嫌そうな顔をされる。
そんなことを言われても、そもそもその怪我に気付いたのが遅かったのだ。二科としても気付いたときにすぐに聞きたかったけれど、当の本人のせいでそれが無理だったのだから仕方がないではないか。
そもそも、後背位で繋がって二科を揺さぶっていた落が、早く射精させろと泣きながらねだる二科の顔を見たいからと正面から入れ直したときに、視界の端に落の腹にある痣のようなものに気付いたのだ。なんだろうと思ったものの、激しい突き上げにそれどころではなくなってしまった。
だから原因の一端は落にもあるのだけれど、それを言ったところでどうなるものでもないので反論はしないでおいた。
それ以前に身体がくたくたに疲れ切っていて、言い合って消耗するだけの体力も残っていない。ベッドヘッドに寄り掛かっているのが精一杯だ。
「いや、まあ……。で、どうしたんだ、それ」
「村野に殴られた」
「……ああ」
落からの返答で思い出す。
「それ、僕が頼んだんだ」
「……あんたな」
落の声が低くなる。割といい声なのに、険しい表情がセットになっているのでもったいないな、なんてこのタイミングで思う二科は疲労もあって少し思考が麻痺しているのかもしれない。
「落に泣かされたから、僕の代わりに一発よろしくって」
「ついでに村野からも一発くらったぞ」
「それは自業自得」
村野のことだから、二科が泣いた分を自分からも一発上乗せしたのだろう。それが村野という人間だ。
そもそも落が二科を泣かせるようなことをしたのが悪いのだ。多少の厭味をこめて言ってやれば、一瞬だけ口をつぐんだ落が人の悪い笑みを浮かべてやり返してくる。
「でもあんたもよかったんだろ?」
でなければ今こんなことにはなっていない、と言われてしまえば今度は二科が閉口する番だった。
野性的な顔立ちの落の瞳には、あの盆のときのようなやさしさは微塵もない。
やはりあれは幻だったのだろうか。でもなければ熱にうなされた二科の見た夢だったのだろうか。
「そうでもなけりゃいくらなんでも店まで来て、どうでもいいから早く抱け、なんて言わないよな」
「うるさいよ」
村野への頼み事は二つ。一つは二科の代わりに落を殴ること。もう一つは、落の勤め先の場所を教えてほしい、というものだった。
そうしてつい数時間前、仕事明けの落に向かって二科は件の台詞をぶちまけて、夜の街で人目も憚らずに自分から落の頬を押さえつけて口付けた。
長身の落の頭を無理矢理引き下ろして何度も何度も唇を重ねた。始めこそ驚いて嫌がるような動きを見せた落も、途中からはいやらしく二科の口の中を好き勝手に蹂躙した。
二人の息が上がった頃にようやく唇を離した二科は、そのまま欲情した顔を隠しもせずに落を誘った。タクシーに押し込めて自宅まで落を連れ帰って、思う存分落の身体を味わって、今に至る。
「お前だっていい思いしたんだから、いいだろう」
自分だけが欲望を満たしたかのような言われ方は納得がいかない。
ふいと顔を背けてみせると落が小さく笑う。そのまま寄ってきた落がベッドに腰掛けて二科の背けた耳の付け根にキスをしてくる。
「こら、もうだめだ」
「まだいけるだろ」
「もう無理だって……身体が動かなくなる」
「それは残念」
くっと笑った落はそれでも素直に二科の頭にやっていた手を離した。
「それにしてもあんたがそんなに俺のことを好きだったとは知らなかった」
「誰がっ。お前みたいなやつ……好きじゃないっ」
「へえ?」
一瞬間が空いたのは言葉に迷ったからだ。
落のことなんか好きではない。けれど、おそらく思うほど嫌いでもない。ふとした瞬間に落のことを考えてしまうくらいには、落の身体に抱かれたいと思うくらいには、きっと。
だからと言って、こんな強引で傲慢なところがあって、加虐趣味があるのではないかと思わせられるやつなど好きではない。断じて違う。と思いたい。
「ま、でも、あんた俺の身体は好きみたいだけどな」
「……っ」
隣に腰掛けられたまま耳元で囁かれる。
ぞくりとしたものが背筋を走るのはどうしようもなかった。小さく息を漏らした二科は自分の意思でなくわずかに濡れた瞳を落に向けた。
「それは……否定しない」
多分、もう落以外の人間に抱かれたいとは思わないだろう。
二科は落によって奪われた。
何も考えられなくなるほどの、何もかも忘れさせてくれるほどの強烈な快感をくれたのは落が初めてだった。祥啓のことなど吹き飛んでしまうほどのそれを、今の二科は手放せないだろう。
「ふうん。……あんたやっぱり俺のこと好きなんじゃないの?」
「お前なんか嫌いだよ!」
いとも簡単に身体が崩れてしまう二科を落に口元を歪めて笑われて、かちんときた二科の口から咄嗟に出た言葉に落はまたもや笑っただけだった。
「あっそ。まあ俺もあんたのこと好きじゃあないけどな」
どこか余裕すら感じさせる態度に、本当に嫌なやつだと心の中で呟く。
「ん……」
けれど優しく重なる唇に塞がれて、それが口から零れ落ちることはなかった。