その瞳に映る人 第11話
村野の連絡が突然なのはいつものことだ。
『……あー、元気?』
久しぶりに聞いた電話越しの村野の声に眉を寄せた二科は、そんなことを思い出していた。
半月ほど前に二科が倒れたときに村野が寄越した暑中見舞メールも、忘れた頃にやってきた便りだった。要所要所ではまめなくせに、それ以外は『便りが無いのは良い便り』とばかりに、二ヶ月だろうが半年だろうが連絡の一つも寄越さないことはざらにある。
二科も最近では友人知人に年賀状以外に連絡もしないこともあるので、人のことをどうこう言える立場でもないのだが。
ともあれ、連絡しなければならないタイミングは決して外さないのが村野だ。そのタイミングの良さには感心する。
「誰かさんのおかげで大層な目にあったけど?」
『ないた?』
酷い目にあったとちくりと告げてやれば、向こうもばつの悪そうな声で問い返してくる。お互い具体的に誰のことだと言わなくても落のことだと通じてしまうのは、付き合いの長さ故だろう。
「……まあ」
答えるまでに間があいたのは、どっちの『ないた』なのだろうかと考えてしまったからだ。咄嗟にそんなことを考えてしまう自分に二科は渋面を作った。
結局どうともとれるような返事をしてしまったのだが、聡い村野は二科の複雑な心中までも読み取ってしまったらしい。もっとも村野にしても、二科と落に身体の関係ができることは初めから予想していただろう。
『あー、やっぱりなぁ。そうなるんじゃないかと思ったんだけど』
そんな呟きを漏らす村野に二科もため息を落とした。
村野はなんだかんだと言うものの、自分から進んで二科を傷つけたり、二科が傷つくような状況をわざと作り出したりするような人間ではない。それだけは疑ったことがない。
いつだって、村野は二科の味方だった。
二科は村野に何度も救われてきた。暗闇の中で迷うばかりの二科に、村野は光を投げ込んでくれる。いつでも二科には思いつけない答えをもたらしてくれる。
そういえば、と思い出す。
『人を好きになってしまったら仕方ないんだ』
昔、祥啓への想いで今よりもずっと悩んでいた頃のことだ。ずっと続く後ろ暗い日々に飲み込まれそうになっていた頃、村野がそう言ったことがあった。
何を相談したわけでもないのに、あるときぽつりと零したそれにどんな想いが込められていたのか。当時まだ高校生だった村野がどんな風に思春期の恋を経験し、とらえていたのか、二科は知らない。
けれど十代特有の、どこか神経質さを感じさせる横顔に色々なものが詰まっているような気がした。
村野の感じていたものがどんなものだったのか。知る機会はなかったが、皆そんな想いをそれぞれ抱えて生きているのだろうかと、そのときの二科はぼんやりと思った。
ただ、それだけで、誰かにそう言ってもらえただけで、ほんの少し心が軽くなったような気がしたのだった。
本当に、村野は余計なことが大好きで、お節介で、でもどんなときでも二科を救ってくれる厄介でありがたい存在だ。
そんな村野がこうしてわざわざ電話をしてきたのも、二科のことを心配していたからだろう。
『でも、その感じなら身体の方は良くなりました?』
「ああ、そっちは大分良くなった」
『それならよかった』
ほっとしたような声に、見えるはずもないのに二科は頷いて返した。
実際に会社でも、すれ違う同僚に『二科さん大分顔色良くなりましたね』と声をかけられるくらいには回復している。
落が看病に来たあの日から、二科はできる範囲できちんとした食事をとるようにしている。と言っても大半は落が残していったものを食べただけだけれど。それから指示された通り解熱剤を飲み、ひたすら眠った。
盆が明ける頃には熱も下がり、半日以上起きていられる程度には回復していた。そうは言ってもまだ完全に復調したというわけでもなく、二週間ほど経った今でも身体の肉は落ちたままだ。
頬がこけているような状態は脱したものの、元々大食らいでもなく、特に鍛えているわけでもない二科の身体にはなかなか筋肉が戻っていなかった。おかげでスーツが少しだぶついてしまって困っている。
これではまた落にがりがりだと言われてしまうな。そうしたら抱いてもらえないのだろうか。
そう思ったところではっと我に返った。
自分は今とんでもないことを考えていた。そのことに動揺する。
『ニカさん? どうかしました?』
「あ、……別に。痩せた身体がなかなか元に戻らなくて、それがちょっとな、と考えてた」
『ニカさん元が細いから。ちゃんと食べてくださいよ』
「わかってるよ。ちゃんと食事はとってる」
村野まで落と同じようなことを言うんだな、と考えて二科は首を振った。
なんでこうなるんだ。
落なんか思い出す必要もないだろうに、なぜ事あるごとに頭をよぎるのか。
もうだめだ。ろくなことがない。
二科は自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「……なあ村野、頼みがあるんだけど」
『ニカさんが俺に恃みなんて珍しいですね。何ですか』
「あのさ――」
電話を終えた二科は折り畳み式の携帯電話をぱたんと閉じた。同時に何度目かわからないため息が唇から転がり落ちた。
なぜなのか。あの日以来、ふとした瞬間に落のことを思い出してしまう。あの男のことを考えてしまう。
ほんのちょっとした、些細なことで落の声や表情を思い浮かべてしまう自分に困惑する。あんなに腹を立てていた相手なのに、どうして今は以前とは違う気分になるのだろう。
両手に握った携帯電話に額を付ける。冷たい金属の感触に眉を寄せながらも、じわじわと頬の辺りが熱くなってくる。
ふと、会社で面倒を見ている比較的仲の良い後輩の女性に声をかけられたことを思い出す。
『わあ、二科さん顔色良くなりましたね。よかったです。んー、でもちょっと悩ましげ?』
『いや、悩ましげって……なに?』
一体何を言っているのかと問い返した二科に、彼女は事もなげに言った。
『いつも眉が少し寄ってて、遠くを見てる感じがちょっとセクシーです。もしかして恋でもしてますか? ときどき誰かを思い浮かべてるのかなって顔してますよ』
『え……』
何を言い出すのだと思ったものの、いたずら小僧のような顔をした彼女はすぐに仕事に戻ってしまい、反論する機会を失ってしまった。
驚いた。まるで二科の事情を見透かすようなことを言われた。
別に恋をしているわけではないけれど、落に焦がれているのは事実だ。
二科は今、自分の身体を持て余している。
毎夜のように落に優しくいやらしく抱かれる夢を見ては、それを現実では得られないことに身体が不満を訴える。夢の中の快楽に、現実の二科の身体が飢えているのだ。
一度生身で経験したことがあるだけに、余計に身体の反応は顕著だ。散らせない熱が身体を覆いつくしている。
自分でも馬鹿じゃないかと思う。
ほんの二週間前までは祥啓に抱かれるという酷い夢に悩まされて倒れるに至ったというのに。今では落に丁寧に抱かれる優しい快楽の夢を見て、身体に熱を溜め込んでいる。
夢を見るたびに身体は反応する。精液が下着に滲み、夢の中で落に絶頂まで連れていかれたときは、寝ているはずの現実の身体もつられて射精している。
この歳になってまだ夢精をするという事実にはうなだれるしかないが、何より落の夢があまりにも気持ち良いということに打ちのめされる。そして身体に残る快楽の記憶のせいで、自慰だけでは熱が収まらないことにも動揺を隠せない。
もう、どうすればいいのかわからないのに、身体だけは日増しに熱くなっていく。早くこの身体をどうにかしたい。快楽を貪りたい。まるで発情期の動物のようだ。
だからといって、街でどうでもいい誰かを引っ掛ける気にはなれなかった。夢のように優しく丁寧に、けれど二科を追い詰めるようにいやらしく抱いてくれるのは一人しかいないと、どこかでわかっているのだ。
誰よりも深く二科の中を覗いて、傷つけていった。もう何年も見ない振りをして逃げ続けているそれを二科の前に突き付けてきた。村野以外の誰にも見せたことのない奥を強引に割り開いていった。
それなのに、倒れた二科に誰よりも優しい何かをくれた。そんなことをしていった人間は今までいなかった。まるで暴力をふるうように二科に踏み込んできた人間は、落以外にはいなかった。
二科は携帯電話から額を外してやや熱くなりすぎた頬を手で擦った。近くに置いてあるネックレスに視線をやる。
なぜ落が今更これを返したのか。
どうして連絡の一つも寄越さないのか。
あんなに優しく看病しておきながら、どうして体調が戻ったかどうかの確認もしないのか。
気が付けば、落のことを考えている自分がいる。
ついこの間までは、見ないように見ないようにしながら、それでも祥啓のことばかり考えていたというのに、一体どうしてしまったのか。
あの日、落に抱かれたあの日に、頭のネジが何本か吹っ飛んでしまったのだろうか。それとも熱で頭がおかしくなったのだろうか。
当然その理由も原因もわからないまま、二科は病気ではない熱に悲鳴を上げ始めている自分の身体を抱きしめた。