となり 第6話
「雪か」
見上げた曇天は天気の割には明るくて、細かい雪を絶え間無く地上に降らせている。
冷える冷えるとは思っていたけれど、ついに雪まで降り出した。道理で芯から冷えるような寒さが室内に入り込むわけだ。
窓から外の景色をうかがっていた暢はわずかな衣服しか身につけていない身体をぶるりと震わせた。厚手のカーテンを元の通りに閉めると暖房のきいた部屋の空気に包まれて、身体がほんの少し温まる。
それでもパジャマの上にカーディガンを羽織って、素足にスリッパを突っかけただけではやはり寒い。
暢は急いで寝室まで戻って温かいベッドの中へ潜り込んだ。遅い朝食をとったこともあって寒さから解放されたが、今度は身体が温まったせいで咳が止まらなくなる。それだけでも苦しいのに、東野に殴られた腹が咳をする度に痛んで辛い。
早く薬が効いて眠りに落ちることができればいいのに。
思いながら、暢は少しばかり痩せてしまった自分の身体を縮めた。
東野との関係は、結局はずるずると続いたままだ。
どんなに懇願しても関係の終了は受け入れてはもらえず、一年前に始まった暴力は少しずつエスカレートしていった。今では暢が少しでも東野に逆らう様子を見せれば容赦なく打たれる。
おかげで身体のあちこちに痣ができてしまって、人前で着替えもできない。
何度も逃げようと考えたけれど、結局はできなかった。
唯一の連絡手段である携帯電話の番号を変えて東野から逃れようと試みたものの、興信所を使って住所を割り出されてしまい、逃げられなくなってしまった。引っ越そうかとも考えたが、多佳子を見送ったこのマンションからは移動することができなかった。
いつでも遊びに帰ってきていいからと多佳子に言ったこと、多佳子との思い出が詰まっていること、そんなことに縋り付いて捕われている自分を結局は振り切ることはできなくて、引っ越せなかった。
気が付けば会社に行っている以外の時間を東野に拘束されているような錯覚を起こしてしまう。
がんじがらめにされているような気持ちで送る日々はよいものではなく、暢は気鬱になることが多くなった。それでも自分が働かなければ生きていけないからと、会社には勤め続けた。それに仕事に集中していれば多少は気がまぎれた。
そんな状態でも東野がまだ真っ当な社会生活を送っていて、同居していないだけマシなのだろう。自分だけの時間が持てるのは不幸中の幸と言っていいかもしれない。同じ家に住んでプライベートの全てまで拘束されていたら、暢は廃人になっていたかもしれない。
布団に包まってため息をつくと数日前に殴られた顔の傷が痛んだ。会社勤めをしているから顔を避けるように頼んでからは腹や背中を打つようになったけれど、時々カッとすると東野は暢の顔を殴る。
この間も、もう何度争ったかわからないことで言い合い、どうしても暢が譲らないことに腹を立てた東野に殴られた。左目の下あたりが情けないほどに腫れて、周囲の人に言い訳するのが大変だった。
ついでにその時に、二月の寒い日にもかかわらず暖房も付けずにセックスをさせられ、喉を痛めた。喉からくる風邪は二、三日は喉の痛みだけだったが、薬を飲んだもののゆっくりと休まなかったせいで悪化し、熱を出して寝込むはめになった。
その結果、せっかくの土曜日だというのにベッドの中で丸くなっている。
さすがの東野も暢が寝込んだと知った時には悪いと思ったのか、情けない声で謝ってきた。
東野には悪いが、仕事が立て込んだせいで土曜日の今日も東野が出勤で、暢の部屋に来られないことに安堵している。このところ特に荒れている東野でも、さすがにないとは思うけれど、病気の時にまで殴られるのはごめんだった。
暢はもう一度息を吐き出した。薬が効きだしたのか、少しずつ眠気の波が大きくなる。
東野の暴力もドメスティックバイオレンスだろうか。
そうは思っても、どんなに打たれても、暢は東野を警察に突き出したりはできない。全て自分が招いた状況で、東野は哀れにもその被害者だ。
そう思えば、暢が東野を好きになることはなくても、東野を冷たく突き放すことはできなかった。最後まで、東野が暢に絶望し執着する心を失うまで、たとえ身体だけでも傍にいるのが暢の義務だと、そう思っている。
もう少しで眠りに落ちることができそうだという時に、一際激しい咳の衝動に襲われて暢は胎児のように身体を丸めた。喉が切れるように痛む。
止まらない咳と雪の降る日の静寂に、自分の孤独を思い知らされるようで苦しい。
どうせなら。本当に傍に居てほしい人がもう二度と手に入らないなら、いっそこのまま眠るように逝くことができればいいのに。そうすればこんなに寂しい思いをしなくていいのに。
布団は温かいのに背中だけが妙に寒くて、暢は毛布を身体に巻き付けるようにした。次第に寒気が取れて暢は眠りに落ちた。
何かの気配を感じて暢は深い眠りから引き戻された。
起きたばかりのぼーっとする頭で辺りを見回しても誰かがいるわけでもなく、何だったのだろうと再び目を閉じようとした。
その瞬間を狙ったように玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰が来たのだろう。
時計は二時過ぎを指していて、東野が仕事を終わらせて寄ったというような時間ではない。
もしかして宅急便だろうか。だとしたら受け取りに行かないといけない。一人暮しだからこの期を逃したら次にタイミングが合うのがいつになるかわからない。
暢は急いで起き出して、パジャマの上に何も着ないままスリッパだけを突っかけて玄関へと向かった。その間にもう一度、本当に不在なのかを確かめるようにチャイムが鳴る。
慌てた暢は
「はい、ちょっと待って」
と声を上げて、ドアを勢いよく開けた。
予想に反して、そこにいたのは宅配の人間ではなかった。もちろん東野でもなかった。
普通の、コートを羽織った男が立っていた。男はドアの勢いに驚いたような顔をしていたけれど、すぐに男前の顔を綻ばせて白い息を吐き出しながら
「よう」
と言った。
男の顔には嫌と言うほど見覚えがある。人間ある程度の年を過ぎれば、余程過激な改造をしない限り顔の造りなんて大して変わりはしない。
目の前にある顔も、十年前に別れた時よりも多少年をとっているけれど全体的な印象は全然変わっていなかった。むしろ、色気が加わって格好よくすらなっていた。
そして何よりもこんな風に暢に声をかける人間を、暢は一人しか知らない。
「川西……」
どうしてここに川西がいるのか、その理由が全くわからない。
一体何をしに来たのだろう。それにまだこのマンションにいると何でわかったのだろう。
掠れた声しか出せない暢とは対照的に川西ははっきりとした声で話しかけてくる。
「まだここにいたな。年賀状が戻ってこなかったから、きっとここだと思った」
笑う川西がなんだか眩しい。思わず暢が目を細めると、一度言葉を切った川西が笑顔を引っ込めた。
「離婚してきた」
「え?」
それしか言葉を言えなかった。
驚いている暢に川西は苦笑した。
「とりあえず、中入ってもいいか」
川西に言われてようやく雪が降っていたことを思い出す。
外の景色に目を走らせると一面真っ白になっていて、雪が大分積もっているのがわかった。そうなると急に自身も寒さを感じて身体が震え出す。いくら冬用のパジャマでもそれだけでは身体が凍えそうになる。
とにかく暢は頷いて川西に中に入るように促した。
ドアが閉まると外の冷気が遮断されて、リビングの方から流れてくる暖気に包まれる。
客用のスリッパを履いた川西はずっと外にいたせいか暑いくらいだともらして、コートを脱いだ。それからパジャマ姿の暢を見て、
「なんだ、まだ寝てたのか」
とからかってくる。それに答えようとして、暢は咳込んでしまった。
「風邪か? そういえば顔が少し赤いな」
川西のひんやりとした手が暢の額を心地よく冷やす。どことなく父親らしい仕草に思えた。大人しく手を当てられたままでいると、気遣わしげに川西が暢の顔を覗き込んでくる。
「熱あるな。出直そうか」
「いや、大丈夫。治りかけなんだ」
「そうか」
川西は暢の格好を見て冷えるからとコートを肩にかけてくれる。
「とにかく上に何か羽織ってこい」
「でも」
「いいから、早く何か着てこい。ぶり返したらただの馬鹿だろう」
「……わかった」
言われるまま寝室でカーディガンを羽織って戻ると、川西は当たり前のようにダイニングの椅子に腰掛けていた。
「ここも変わらないな」
川西に促されるようにリビングの方を見る。確かにあまり変化は見られない。
大分前に所属していた部署が会社本体から切り離された関係で一度だけ、多佳子が大学生の時に引っ越したけれど、それ以外は住居を変えていない。多佳子が時折模様替えをしてその度に家具の配置が変わったりしたが、それも多佳子が家を出てからはなくなった。
だからもう十年近く会っていない川西でも懐かしく感じるのだろう。
「多佳子がいなくなったら誰も模様替えなんてしないからな。コーヒー飲むか? インスタントだけど」
「もらおうか」
あまりに長い間会っていなかったせいかどこかぎくしゃくする。二人の間にはそれだけの距離があって、それは縮まっていないのに不思議と会話だけは自然に紡げる。なんだかおかしかった。
「熱いから気をつけろよ」
ポットの湯で濃いめのコーヒーを作ってダイニングテーブルに置く。持ち手を川西の方に向けて手を放したところで唐突に手首を掴まれた。
「!」
驚きすぎて身体を揺らした暢に構うことなく、川西はパジャマの袖を肘の辺りまで上げた。
「どうしたんだ、これ」
川西の視線の先にはまだ色の濃い痣がある。コーヒーを置くときに川西に見えてしまったようだ。
しまったと思ってももう遅い。どう答えようかと暢が迷っている間に川西は立ち上がってパジャマの裾を捲くった。暢の腹を見て川西が息を飲んだ。
この間殴られた痕も腕の痣同様濃い色をしているし、それ以外の部分にも色の薄くなった痣がいくつもある。明らかに何度も殴られているのがわかってしまう有様だった。
「ひどいな」
じろじろと見られるのが恥ずかしい。以前より痩せてしまった身体は自分で見ても少しみすぼらしくて、それを川西に見られるのは嫌だった。
「もう、いいだろう……」
「……男か?」
川西が指先で胸の下をそっと撫でた。わずかな刺激に肌が粟立つ。
「ここに小さな痕がある」
それがこの間東野に付けられたものであることは明白で、指摘された暢は肌を赤く染めた。
川西の指はまるでそれを楽しむようにまだ触れたままだ。熱っぽい肌は冷たい指の感触に敏感に反応してしまう。耐えられなくなった暢は川西の手から裾を引ったくるようにして身体を離した。
「もういいだろう……っ」
「痣も、その痕を付けた奴がやったのか」
「……川西には」
「関係ない?」
先を越された暢は言葉に詰まった。どこか悲しい目をして自分を見ている川西に、何をどう言えばいいのかわからない。
肌にキスマークを残したのも、暢の身体にいくつもの痣を作ったのも、川西の言うように今関係を持っている東野という男なのだ。大体、言い訳をしたところですぐにばれてしまうような嘘にしかならないだろう。殴られて喜ぶ趣味が暢にないことなど川西は昔から知っている。
「そうだな。関係ないかもしれない」
暢が迷っているのを川西は肯定ととったようだ。苦笑しながら話し始める。
勝手なもので川西の口からはっきりと関係ないと言われると、言いようのない寂しさを覚えてしまい、暢はパジャマの袖を強く掴んだ。
「でも、……そんなことはいい」
川西は迷うような素振りを見せた後、横を向いたままだった暢を背中から抱きしめてはっきりと言葉にした。
「もう一度、俺の傍にこないか。いや、お前の傍に居させてほしい」
突然のことに頭がついていかなかった。
一体川西は何を言ったのだろう。もう一度暢と同じ時間を過ごしたいと、言ったのだろうか。そんなこと、あるはずがないと思っていた。
胸の前で交差する腕を解こうとした指が震える。
「自分の手から無くなって初めて、それが大事なものと気付くっていうのは本当だな。お前がいない生活になってよくわかったよ」
暢は何も言えない。
ただ伝わってくる川西の体温と、耳に吹き込まれる言葉に心だけでなく身体までもが震えて止まらない。
そんな身体を慰めるように、温かな唇がうなじに押し付けられる。何度も何度も小さなキスを繰り返されるうちに、身体が溶けそうになってしまう。
「あの頃はまだ俺も年を食うばかりで青かったな。長く傍に居すぎたせいか、お前のこともはっきり見えなくなっていたのかもしれない。結婚して落ち着いて、ようやく見え始めた。お前の気持ち」
「……川西」
「失うことが恐いのは、当たり前の感情だ」
「川西、もういい。何も言うな……っ」
あまりに暢に都合が良すぎる。そんな現実が訪れるわけがない。
川西の腕から逃れようと必死になって腕を動かすけれど、川西の力が強くなるばかりだ。
「言わせろ」
川西は暢の肩に顔を埋めた。
「一緒に居たい。今度こそ俺のものになれ」
「川西っ」
もがけばもがくほど抱きしめられている自分に気が付いて、泣きたくなる。こんなこと、あるはずがなかった。
だけど、本当は川西と関係を絶ってから何度か考えたことがある。
もし、もう一度川西と共に居ることができる機会に恵まれたら。絶対にないだろうけれど、もしそんなことがあったら、今度こそ間違えないで川西の傍にいることを選ぶのに、と思った。失うことを恐れるあまりに何かを手に入れることまでも拒絶した愚かな自分を呪いさえした。
まさか本当にそんな機会が訪れるなんて、思ってもみなかった。
「俺のものになれ」
もう一度言われて、強く抱きしめられて、暢の目から涙が零れた。
ようやく、自分が本当に望んだものを手に入れることができる。
決別してから気付いた本当に大切なもの、大切な人。もう二度と手にすることができないと思っていたものが戻ってきた。ずっとずっと欲しかったもの。
暢は川西の腕をしっかりと握った。両親を亡くして以来この年になるまで、生理的な涙以外では、暢は一度も泣かなかった。自分が泣いてはならないと思っていた。
そして何かを失う度に空っぽになっていくのを感じて、涙も同じように涸れていくのだと思っていた。
胸の中の熱いものが迸って、涙が溢れ出る。それが川西の腕にぽつりと落ちると、堪えようもなく後から後から零れてどうしようもない。
「――っ」
抑えようのない声と腕に落ちた雫に暢が泣いていると気付いた川西が腕を解いて、今度は正面からそっと暢を抱きしめる。
「愛してる」
耳元で囁かれる言葉に、暢は意味もなく頭を振った。信じられなかった。川西からそんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。
「愛してる」
何度も落とされる囁きに、何度も頭を振る。その度に涙がはらはらと落ちていく。
自分でもなんで拒絶するような仕草をするのかわからない。ただ、信じられない思いで一杯で何も考えられない。
ただただ頭を振るばかりの暢を、川西がぎゅっと抱きしめた。
「愛してる……暢」
甘い言葉についに暢の身体は動かなくなってしまう。強く抱きしめられた川西の腕の中は温かく、心地良かった。
陥落した心に従っておずおずと川西の背中を抱き返す。目を閉じると零れた涙が頬を伝っていく感覚がした。
「もう一人にしないでくれ」
自分勝手な言い分だとわかっていても、もう川西に置いていかれたくなかった。
十年前には言えなかった言葉を素直に口にすると、川西が息苦しくなるほどの力で抱き返してくれた。
言葉にできないほど嬉しくて、涙がまた溢れた。
「一緒に居たい……」
詰まる声で小さく呟いた、その時。
背後でガツンという嫌な音がした。はっとして、力の弱まった川西の腕の中から振り返ると、来ないだろうと思っていた東野がリビングの入口に青ざめた顔で立っていた。足元にはスーパーの袋が転がっていて、中からフルーツの缶詰が零れだしている。
「東野……」
さっと川西から離れたけれど、もう遅い。どう考えても東野は抱き合っていた川西と暢を見たはずだ。
「仕事、早く切り上げて、見舞に、来たんだけど」
途切れ途切れの言葉が東野の震える唇から紡ぎだされて、暢はいたたまれなくなる。けれどそれは、きつい眼差しで東野が川西を睨んだことで吹き飛んだ。
「てめえっ」
言葉遣いのいい東野から発された罵る言葉に、咄嗟に暢の身体が動いて川西を突き飛ばした。
「……っ」
川西の顔を狙ったはずの拳は見事に暢の口元に命中し、間髪入れずに繰り出された蹴りは腹にめり込んだ。
重い衝撃に声にならない声が漏れて、暢の身体が勢い余って後退した。そのままドンッと派手な音を立てて壁にぶつかり、ずるずると座り込む。
「うっ……」
長身から生まれる力は強く、蹴られた腹は内蔵を押し潰される感覚に悲鳴を上げ、壁に打ち付けた背中も痺れるように熱い。
暢は腹を押さえてうずくまるけれど、痛みはもはや痛みと呼べるようなものではなく、吐き気をもよおす。それだけでも辛いのに詰まった息のせいで咳が止まらない。
「なんで……」
目的の人物ではなく暢を蹴り付けてしまったことに遅まきながら気付いた東野は、泣きそうな顔をして握った拳を震わせていた。
「なんで庇うんだよ」
暢が川西を庇ったことが信じられないらしい。力の入らない身体の暢を揺さぶった。
「おい、止めろっ」
突然の出来事に活動を停止していた川西が復活して、暢から東野を引きはがす。ついでに東野の顔を平手で打った。川西は呆然としている東野を放って、暢の肩にそっと触れてくる。
「大丈夫か? 立てるか?」
「……大丈夫……だ」
川西相手だったせいか手加減のない力技は、直後の熱が引くと強烈な痛みを残していった。それでも少し時間を置けば咳も止まり、立てないほどの損傷もなかった。顔の傷も唇が切れて出血してしまったが、歯が折れずにすんだのは幸運だ。
「俺の家に行こう」
よろよろと立ち上がった身体を川西が支えてくれる。一人で歩けると言うと川西は暢の手を引いて部屋を出ていこうとした。温かい手が嬉しかったけれど、暢はそっとその腕を解かせた。
東野をこのままにしておけなかった。
「……来生?」
「今日は、帰ってくれ」
「本気か?」
頷くと鋭い視線が送られてきて、身を切るような思いがする。
「そいつを選ぶのか」
独白のように呟かれた言葉にはっとする。自分は今、川西を捨てて東野を取ろうとしていると思われたのだろうか。そうではないのに。
川西は振り返らずにコートを取ってリビングを出た。代わりに東野が寄ってきて、
「暢さん……」
とそっと呼びかけてきた。
東野が暢の右腕を掴んだ。暢は俯いた。
やっと手に入れたものを手放すことなんて、できない。手放したくない。何としても川西の傍に居たい。東野と川西では同じ秤に掛けることもできないくらい、差がある。欲しいのは東野ではない。
思いが渦巻いた。
暢は顔を上げた。東野の肩越しにリビングの入口を見ると、出ていったと思っていた川西が暢を見ていた。
「俺を選べ」
暢の目を見て発された言葉に、考えるよりも先に身体が動いた。東野の指を振り切って、腹を押さえながら川西の元へ向かう。川西はそれを確認してから背を向けた。暢がついてくることがわかっているのだ。
暢に逃げられた東野は後ろから腕を掴んだ。まるで東野の心を表しているような力の入り方だった。
「東野、ごめん」
「暢さん……あいつなの? あいつじゃないと、ダメなの?」
ずっと恋人にはなれないと言ってきた理由、それが東野にも伝わったようだった。
「すまない」
「なんで!」
なんで俺じゃないの、と叫ぶ東野の腕を無理矢理解いて暢はリビングを去ろうとする。背後からは東野の喚き声が聞こえたけれど、足を止めないように堪えた。
「俺を置いていかないでよっ」
喉が切れそうな絶叫が心に刺さるような気がした。
暢は痛みで重く感じる身体を動かして玄関で待っていた川西の胸に飛び込んだ。
「いいのか?」
「……行こう」
「そうか」
川西は自分が持ってきた傘を持って、暢を外に連れ出した。
外ではまだ雪がしんしんと降っていた。
パジャマ姿の暢は、近くで捕まえたタクシーの運転手に不思議そうな目で見られた。