清想空

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open05.04.12
となり 最終話
暢は川西の部屋のリビングに連れてこられた。
ソファにもたれながら、一人で住むには広すぎると思ってから、暢はようやく彼が結婚していたことを思い出した。
「家族はどうしたんだ」
「離婚したって言っただろう。出ていったよ」
そういえばそんなことを言われたような気もしたが、川西に抱きしめられたことやら東野の騒ぎやらですっかり頭から抜け落ちてしまっていたらしい。
「子供はどうしたんだ。そういや奥さん、綺麗な人だったな。気の強そうな美人だ」
「そうでもないさ。芯は強いけど、……折れそうなほど弱いところがあったよ」
別れた妻に未練がありそうな発言に、勝手に傷つく自分が嫌になりそうだ。暢はそれでももう一度、子供は、と聞いた。
「奥さんが引き取ったのか」
「あれは俺の子じゃない。そんなことより、本当に病院に行かなくていいのか」
あれが川西の子供ではないという事実に驚いている暢など無視して、川西は話を強引に逸らした。その態度に聞くなと言われているようで、仕方なく暢も追及するのを止めた。
「病院はいい。行ったら面倒なことになる。幸い骨は折れてないみたいだし、大事にはしたくないんだ」
「そんなに殴られてるのに、か?」
「だからだよ。東野を警察沙汰にしたくない」
「なんでそんなに庇うんだ。身体だって痣だらけじゃないか」
「東野は、……俺の犠牲者だよ。俺のせいで、あんなになった」
東野を庇う暢に苛立ちを見せていた川西も、納得したらしい。顔をわずかに歪めて、暢の頭を胸に埋めさせた。
「可哀相なことをした……」
「もういい。湿布持ってきたんだけど、貼るか」
「……貼る」
暢にパジャマの裾を上げさせた川西は、腹に残る痕を見て顔をしかめた。ソファの背にもたれながら暢も目をやると腹の一部が、ちょうど掌くらいの大きさで真っ赤に腫れ上がっているのが見えた。
自分のことながら痛々しい。殴られたり蹴られたりすることには慣れていたけれど、ここまで激しいのは初めてだ。
小さく息をつくと腹が上下した。川西が赤くなっている部分に触れる。
「痛いか?」
「そんなには。押されると痛いけど、そうじゃなければあまり感じない」
「そうか」
川西は傷ついた肌を慰めるようにさする。色が薄くなって黄色くなっている痣にも手を伸ばす。
「おい、湿布……」
湿布を持っているのに肌をさするばかりの川西に焦れて湿布を奪おうとすると、その手を掴まれてしまう。そのまま川西は痣にそっと口付けた。腹中にキスされるような気がして止めようとするのに、粟立つ肌と川西の意思に阻まれた。
川西はパジャマをさらに捲くり上げて、弱々しく抵抗する暢の乳首に手を伸ばしてくる。
「川西っ……お互いもう若くないんだし、何も今じゃなくても」
「いいだろ。十年振りなんだから触らせろ」
「いや。でも」
「七十で子供作る爺さんがいるんだし、それに比べたら俺達なんて若いもんさ。傷に触らないようにするから」
ぐずる暢を宥めすかせて川西は容赦なく乳首を摘んだ。久しぶりに感じる川西の手つきに抵抗できなくなる。
せめてベッドでと頼み込んで移動して、結局本当に熱があることも忘れて川西の熱に浮かされた。
 
 
 
翌日の日曜日は引き止められるまま川西の部屋で過ごし、体調不良を理由に会社を休んだ月曜日に自分の部屋に帰ると、既に東野はいなくなっていた。けれどリビングと寝室は目茶苦茶に荒らされていて、それこそ足の踏み場もないような状態だった。
寝室はベッドの毛布が剥がされ、クローゼットの引き出しはひっくり返されて中身が床にばらまかれていた。リビングはもっと酷くて、メモ用紙やインテリアの類が散乱しているのは勿論のこと、食器棚のガラスが破れている上に、陶器の食器がほとんど全てと言っていいほど割られていた。
あまりのことに一瞬気が遠くなりかけたけれど、東野にこんなことをさせるだけのことを自分がしたのだと思うと、心が痛んだ。
とりあえず片付けをしようと、陶器の破片に気を付けながらリビングを横切ろうとしたところで、ダイニングテーブルの上に置かれた紙切れに目が行った。何だろうと思って手に取ると、ごめんの一言が書かれていた。
それがどのことに対しての言葉なのか暢には判断がつきかねたけれど、東野の精一杯の気持ちが感じられて、そっと紙を胸に当てた。
「ごめん、東野。ごめん、ごめん……すまない……」
何となく、もう東野はここに来ないような気がした。そのことに罪悪感と安堵感、両方を覚える自分が嫌だった。
けれど、東野を思うと涙が零れて、止まらなかった。
どうして彼を愛することができなかったのだろう。どうして、彼を犠牲にしてしまったのだろう。自分がもっとしっかりしていれば、彼をあんな風に傷つけることはなかった。
そのことが悔やまれてならなかった。
 
 
 
数回の呼び出し音の後にようやく目当ての人物が電話に出た。
『はい、滝崎<たきざき>です』
「あ、多佳子? 暢だけど」
『暢さん? どうしたの。珍しいじゃない、電話くれるなんて』
「ちょっとね」
電話を通して聞こえる声は明るくて、暢は少し安心した。
多佳子は五年前に双子を出産して母親になっていた。一度に二人の赤ん坊を抱えて、てんてこ舞いだと言っていたけれど、夫である雅史<まさふみ>の支えもあって家族はうまくいっているようだ。
多佳子と別れることは寂しかったが、今はもうそれには慣れた。彼女が自分の家族を持てたのなら、それでいいと思える。
「双子は元気かい」
『ああ、もう、元気過ぎて嫌になっちゃうわ。暴れ放題よ』
「今、五歳だっけ」
『そうよ。もう五歳になるとあちこち駆けずり回って怪我するは、家の中は目茶苦茶にしてくれるは、子供って何であんなに元気なのかしら』
「まあまあ」
顔をしかめている多佳子が想像できて、暢は思わず笑ってしまう。
『で、どうしたの?』
「ああ、そうだった。実は、引っ越したんだ」
『どうしたの、一体。前は引っ越したがらなかったのに』
「ちょっとあってね。それにお前もあまり帰ってこなくなっただろう。一人だとあの部屋は広すぎる」
『確かにそうだけど。暢さんが寂しくないなら、私はそれでいいわ』
さすが養子とはいえ娘だ。暢が人一倍、人恋しくなりやすいことを知っている。
この分だと、下手すると川西との関係も薄々感づいてるかもしれない、と考えてひやりとする。
『で、新居はどこ?』
「前に住んでたところに少し近いかな。会社からは遠くなったけど電車一本で行ける。多佳子のところからもそう遠くないよ」
『そう。じゃあ近々引越祝いも兼ねて新居見に行く』
「ああ。双子も連れておいで」
『……考えておくわ』
それから盆の未知子の墓参りとか他愛のない話をして電話を切った。それを見計らったようなタイミングで廊下から川西が顔を出した。
「多佳子ちゃん、何だって?」
「俺が寂しくないならいい、だってさ」
「いやあ、多佳子ちゃんわかってるね。伯父さんが寂しがり屋だってこと」
「うるさい」
聞く耳を持たず一蹴しても川西は穏やかに笑っていた。それにつられるように暢の顔にも笑顔が浮かんだ。
「でも、本当によかったのか。引っ越して」
川西は少しためらうような仕草を見せた後、まっすぐに暢の目を見た。それから目を逸らすこともせずに暢は答えた。
「いいんだよ。……これでいいんだ」
あの一件があってから、確信にも似た予感通り、東野が暢のマンションに来ることはなかった。多分、東野にももうどうしようもないことがわかったのだろう。暢と東野では決定的に駄目だということを、わかってしまったに違いない。
だから、暢は、いつまでもあそこにいたらいけないと思った。あそこにいたらきっといつまでも引きずると何となく感じていたから、暢は思い切って引っ越した。あのままマンションにいたら、川西を選んだのに、ずっと東野のことを引きずる。それは二人の間に、よくないことはわかっていた。それだけは、どうしても避けたかった。
東野のことを忘れたいわけじゃない。自分が一人の人間を狂わせてしまった、その事実は変わらないのだから、忘れていいはずがなかった。けれどそれをいつまでも引きずっていては再出発はできない。だから、今までとは違う選択をするために、思い出も振り切って。
そんな暢のことをわかっている川西は、引っ越すと告げた時、大して驚かなかった。むしろ、どこかで感じていたようだった。以前よりも少し年取った顔で、柔らかく笑った。
自分の考えを許容してもらえたという思いと、そんな顔もできるのかというどこか見当違いなことを考えて、暢もぎこちなく笑った。これでいいのだと、自分に言い聞かせた。
そんな川西だったが、不満そうな顔で暢に視線を投げかけてきた。
「でも、何で俺のとこに来ないんだよ」
「何も四六時中一緒にいなくてもいいだろう」
「言うようになったなぁ」
にやにやと笑う川西に間髪入れずにあっさりと答え、暢は口の端だけを持ち上げて応えた。
もう、失うことに怯えて臆病に震えてはいられない。本当に欲しいものを本当の意味で手に入れられないのなら、何の意味もないことを知ったから。それがもっと辛いことだと、この十年で嫌というほど思い知らされた。
だから失うことに怯えても、手を伸ばして、求めることをしなければならない。そうしなければ川西も、欲しいものも手に入らない。
でも、人間だからいつか心変わりするかもしれない。もう若くもないから、だれてしまって、二人でいることの意味を失ってしまうかもしれない。それは仕方のないことで、そうなってしまったらおそらく別れることになるのだろう。
けれど、それでもいいと思えるようになった。考えたくないような結末ではあるけれど、今、二人が同じ時間を共有できることが大事なことなのだ。
そうわかっただけで十分だ。
五十を過ぎてからようやくそんなことに気付くなんて馬鹿だと思うけれど、ずっと止まっていた自分の時間がようやく動き出した。だから川西との間に物理的な距離があっても、もう大丈夫だと思う。
物理的な距離を越えられるだけの想いがあると思うから、常に同じ場にいなくてもやっていける。一人だけの部屋にも耐えられる。何かに縋るだけの自分ではなくなる。
少しずつだけれど変わっていっている自分に、暢も気付いている。
きっとそれでいいのだ、と暢は一度瞳を伏せた。
変わることは悪いことではない。変わらないことも悪いことではない。けれど、変わらないことにこだわる必要はないのだと思う。人も、物も、時間が流れる限り、どうしても変わらざるを得ないことがある。それに無理に逆らう必要は、きっとない。無理をせずに、自分なりの変化でいい。
多佳子も、そして川西も、きっとそれぞれのペースで変化している。そして未知子も。
今更それに気付いたのかと、未知子辺りに苦笑されそうだが、それもいいかもしれない。今度の墓参りでは、そのことを報告しよう。
様々な思いにとらわれていた暢は、川西の視線も跳ね除けて、作業に戻った。
「さてと、片付け片付け」
今日のうちにある程度片付けないと日常生活さえもままならない。とりあえず足の踏み場だけは確保しようと、近くにあった段ボールに伸ばした手を川西が捕まえた。
「こらっ……ちょっとっ」
引き寄せられたことに抵抗すれば、いいじゃないかと川西は顔を寄せてくる。
「片付けがまだ終わってない」
「キスだけ、させろよ」
柔らかく微笑まれて暢の動きは止まってしまう。
卑怯だ。そんな風に男前の顔を綻ばせて言われたら、従わざるを得ないような気がして。
「ほら、目、閉じろよ」
仕方なく言われるまま目を閉じると、柔らかな唇が暢のそれに触れて、直ぐに離れていった。
とても穏やかでゆっくりとした時間の流れに、暢はちょっとした幸せを感じて、もう一度瞳を閉じて川西の口付けを受け入れた。
叶うならば、この幸せがいつまでも続きますように。
そう思ってしまうほど、暢は穏やかな気持ちになった。そして、少しずつ贅沢になっていく自分にほんの少し、苦笑を漏らした。