となり 第5話
するりと細身のジャケットに腕を通した遼路<りょうじ>は、振り返ってどこか痛みを堪えているような表情で暢を見た。
「もう、終わりにさせてください。暢さん」
「……わかった……」
初めからこういう約束だった。遼路がやめたいと言うなら、暢に言えることは了承の言葉だけだ。
「ごめんなさい」
遼路の辛そうな顔を見れば、こちらの方が余程心が痛む。そこまで思い詰めさせた自分が憎らしい。
「謝らなくて、いい。俺の方こそ、済まない」
それでも、暢は自分の中のこの一線だけは絶対に越えないと自分に誓ったから、それを守らないわけにはいかない。
遼路はそれを知らないはずなのに、頭を振って暢を慰めてくれる。心が痛い。
「お願いだから、携帯のメモリから俺の番号消してください」
「……ああ」
「それから、お金、ここに置いておきますから」
「いや、いいよ。俺が全額持つから」
ベッド脇のテーブルに数枚の千円札を置く遼路を止めようとすると、最後だからと押し切られた。
「それじゃあ。……さようなら、暢さん」
最後にほんの少しだけ笑って、遼路は部屋を出ていった。
ドアが閉まると、部屋には本当に暢一人がいるだけになってしまった。
ベッドの中にいたままだった暢はしばらくの間ぼーっと遼路の消えたドアを見ていたけれど、それも虚しいだけと気付いてのろのろと辺りに散らばっていた服を身につけた。
腰の奥が鈍く痛んだけれど動けないほどではない。暢は忘れ物がないかどうかチェックして、最後に遼路の置いていった金を持って部屋を出た。
地下の受付で部屋代を払って、部屋のキーを返却する。延長料金も発生せず、うまく遼路と折半という形になった。
ラブホテルから出るときは少しだけ辺りを確認してから道路に出る。会社から遠く、知っている人間に会う確率は極めて低いけれど、やっぱり見知らぬ人でもホテルから出てくるところを見られるのは恥ずかしい。
今夜もさっと辺りを見回して人がいないことを確認してから、駅に向かって歩き出した。
今年で多佳子が結婚してから八年経つ。それは同時に、川西が結婚してから経つ年月を示す。
結局川西とは、多佳子の結婚式の夜に肌を重ねて以来、会っていない。
結婚してすぐの正月に年賀状が届いたけれど、何を書けばいいのかわからなくて結局暢からは年賀状を出さなかった。
その翌年には子供の写真入りの年賀状が届いた。かわいらしい子供の写真に思わず自分の顔が緩むのを感じた。でもやはり書くことが思い浮かばなくて、年賀状は送らなかった。
毎年その繰り返しで、でも何故か川西からの年賀状は欠くことなく届いた。
それもここ一、二年は届かなくなったが。
きっと子育てとかで忙しいのだろう。暢のことなど忘れて家族サービスに励んでいるに違いない。
自分でそうに違いないと思うくせに、それに傷つく。単なる馬鹿だとわかっているけれど、いまだに暢にとっての川西の存在は大きかった。
それを忘れたくて、寂しさを埋めたくて、暢は頻繁に夜の街を歩くようになった。いわゆるその手の店に入って、一時の間、かりそめの恋の相手になってくれる人を探す。
そうでもしなければ、一人の寂しさに耐えられなかった。誰でもいいから、一時でもいいから、誰かと肌を重ねていたかった。
久しぶりに会社帰りに寄ったバーで既に定位置になった席に腰掛けると、顔なじみの店員、沢井<さわい>がひっそりと声をかけてきた。
「今日はお一人ですか?」
「ああ」
一人ということはフリーであることを示す。暢の答えを聞いた沢井は珍しいですねと言って、おしぼりを渡してくれる。
「そういえば、そうかな」
遼路とは、今までに関係を持った人間と比べれば長く付き合ってきた。待ち合わせにこの店を使っていたから、沢井もそれをわかっているのだろう。
「遼路さんとは結構長かったですよね」
まだ三十の若い沢井は歯に衣着せぬ物言いをする。けれど店に顔を出し始めた頃の暢を知っている彼になら、そんなことを言われても不快にはならない。むしろ、まだ二十二歳だった彼に一夜限りの遊びを咎められた暢には、沢井の言葉は優しさのように感じられた。
「そうだな……」
「きっと相性がよかったんですね」
「そうかな? むしろ彼には辛い思いばかりさせた」
彼の顔を思い出せば胸が痛むばかりで、申し訳ない。
「また、駄目になったんですね」
「それも仕方ない。向こうは若いしね。こっちはもう五十も間近のオジサンだ」
「とてもそんな風には見えませんが」
クスクスと笑う沢井に苦笑した。
確かに暢は顔にあまり年が反映されず、黙っていれば四十代前半に見られることが多い。
男性同士の出会いを提供するこのバーでも年上好きの若い子によく声をかけられる。時には暢の年の半分程度しか人生を送っていない青年だっている。そういう人達に実年齢を伝えると往々にして驚くのだ。
「顔が若いくらいの取り柄がないと相手にしてもらえないからね」
「そんなことはありませんよ。来生さんを狙ってる人は結構多いですから」
「そう?」
そうだろうか。よくわからないけれど、暢に声をかけてくるのはほとんどが年下だ。今までで一番年が上の人で四十歳で、その人とは一夜の大人の付き合いだけだった。少しでも長く関係を続けようとすると、二十代後半から三十代前半になってしまう。しかも最近では概ね二十代に絞られてきている。
そんな二十も年下の青年から見て、顔以外に気に入るようなところが暢にあるのだろうか。
不思議がっているのがわかったのか、沢井は言葉を足した。
「来生さんはバランスがいいんですよ」
「バランス?」
「身体もほっそりとして引き締まってるし、スーツもよく似合ってるし、なんていうか、品があるように見えるんです」
「……他人からだとそんな風に見えるものなのか……」
自分では全然そうは思わないので、ピンとこない。
「そういうものですよ。ほら」
沢井の目配せに振り向くと同時に、隣に人がやってきた。短い髪とやや精悍な顔立ちだという印象を与える青年はまだ若く、革のような光沢を持つパンツがまた、若さを表している。
「一人ですか?」
尋ねてくる声は穏やかな響きだ。
暢が頷くと青年はほっとしたように息を吐いて、隣のスツールに腰掛ける。
「もしよかったら、この後二人で飲みませんか」
人を誘うことに慣れていないのか、緊張した面持ちをしている。内心で若いなと思いつつ、暢はいつもの口上を並べた。
「私はもう五十のオジサンだけど、それでもいいですか?」
隣の青年は年を聞いて驚いたものの、迷うことなく構いませんと答えた。
「私は、一夜限りの遊びはなるべくしないことにしています。そこで、付き合いをするに当たって、いくつかの条件を飲んでもらうことになるんだけど、いいですか? もちろん、その条件では嫌だ、という場合には断ってくれて構わない」
「……とりあえず条件を聞かせてください」
怪訝な顔をした割に青年は話を促してきた。
「条件は三つです。まず初めに、私はあなたの恋人には決してならない。二つ、もしあなたが私を好きになったら、関係を終了する。三つ、お互いの部屋には行かない。以上のことを守っていただけますか?」
言い終えると、相手は複雑そうな顔をしている。暢の言いたいことがわからないのだろう。
「私は恋人を欲しいとは思わないけれど、誰かに傍にいてほしい。だからこんな条件になります。ただ、私がどうしても無理だと思ったときと、あなたが関係を止めたくなったときには、関係は終了です」
我ながら自分勝手な条件だと思う。恋人にはなれないのに傍にいてほしいなんて自己中心的で、とてもまともな五十歳が考えることではない、と思う。
デートはしても、お互いの部屋には行かない。肌を重ねるときはホテルを使う。セックスはするけれど恋人にはなれない。しかも暢としては余程のことがない限り関係を続ける。
割り切ることのできない相手には重い条件だ。実際にこの間関係を絶った遼路は暢に好意を抱いてしまい、その恋心と、暢との関係の板挟みに苦しんでいた。
好きになってしまったら一緒にいられない。恋人と同じような時間を過ごすから好意が芽生えるのに、なんて皮肉だろう。
けれど、これがたどり着いた答えだから、これを破ることはできない。
そう、これは言わば暢と相手が結ぶ契約だ。お互いに条件に合う間は契約を続ける、そんな関係。
「どうしますか?」
さて、どういう反応が返ってくるか。
隣の青年は困ったような顔をしている。どう判断していいものか迷っているようだ。こういう時は大体の場合が断られる。
駄目かな、と思いながらグラスに口を付ける。ちらりと横目で様子を窺うとじっとこちらに向けられた視線とぶつかった。思わぬ視線の強さに、どきりとした。
彼はグラスを置いた暢の右手にそっと手を重ねてきた。すらっとした長い指に、大きな掌に、包まれる。骨張った感触と伝わってくる熱が、なんだかむず痒い。
「条件を飲みます」
手が握られた。
「そう」
意外な答えだった。青年は青柳東野<あおやぎとうの>と名乗り、暢の名前を聞いてきた。暢が答えると、手を握ったまま立ち上がった。
「来生さん、場所を変えませんか」
つられるように立ち上がって、初めて東野の背が高いことに気付いた。おそらく百八十くらいはあるのだろう。
「じゃあ、行こうか」
東野に肩を抱かれてカウンターを離れる。最後に、ずっと沈黙して様子を見守っていた沢井に視線をやると、何かを言いたそうな悲しい目をしていた。
東野と関係を持ち始めてから三ヶ月の間は楽しかった。
すっきりした顔立ちが示すように、東野ははっきりとした性格だった。年はまだ二十八と若くて、暢より二周り近く年下だ。背も高くて、総じて好青年といったところだろうか。
きっぱりとした性格はきついと受け取れなくもなかったけれど、東野は暢には優しい。なるべく暢の意見を尊重しようと気を遣っているのがわかるくらい、優しい。時に優し過ぎて苦笑を漏らしたくなることもあったけれど、二人でいる時間はゆっくりとした流れで、とても心地よい。
今日も二人で昼食を摂った後、世間で話題のミステリー小説を映画化したものを見に行った。軽くティータイムを楽しんでから、ホテルになだれ込んだ。
ひとしきりじゃれあった後、シャワーを浴びた東野がまだベッドの中でぐだぐだとしている暢の傍に寄ってきた。
「ねえ、暢さん」
ベッドヘッドに寄り掛かってぼーっとしていた暢の近くに腰掛ける。
「暢さんはどうして恋人を作らないの?」
最近東野はよくこんなことを聞いてくる。今まで付き合ってきた相手、一番長く関係を持った遼路でさえ聞いてこなかったことを探ってくる。
それは明らかにルール違反だったけれど、しつこく聞いてくるから暢は答えるしかなかった。
「深い理由じゃないよ」
一応聞くほどのことではないと牽制してみたものの、やはり東野は引き下がらなかった。
「教えてよ」
一重の瞳にじっと見られると、言わなければならないのだろうという気にさせられる。
口からため息が漏れそうになったけれど、なんとなく東野が傷つきそうな気がして、心の中だけに留めておいた。
「……特別な人をつくりたくないだけだよ」
これで東野は納得するだろうか。
東野に視線をやると納得のいかなさそうな顔をしている。あまり説得力がなかっただろうか。
確かに中途半端な答えだ。けれど、これ以上の答えを求められても、困る。本当のことなんか言えるわけがない。
人を愛することが恐くて逃げ出したせいで、本当に大事な人を失ったなんて。いまだにそれを引きずっていて、その人以外は単なる穴埋めでしかないなんて、打ち明けられるはずがなかった。そして知られたくなかった。
「本当にそれだけ?」
「……そうだよ。もうオジサンだしね、本気で人に恋をすることに臆病になったんだ」
「ふぅん……」
不思議なものを見るような目で東野は暢の瞳を覗き込んでくる。急速に詰められた距離に思わず身体を引くと、東野の手が些か乱暴に頭を引き寄せた。そのまま覆いかぶさるように口付けられる。柔らかい唇はすぐに離れていった。
「暢さん……」
熱がこもったような声が耳元を掠める。バスローブを羽織っただけの東野がベッドの上に乗って距離を縮めてきた。空いた左手で何も身につけていない暢の胸を弄る。キスを再開されて、息苦しい。
「暢さん……暢さん……」
合間に呼ばれる声がいつになく熱っぽい。今まで感じたことのない熱にまずいという気がしたけれど、東野を突き込まれて、それは暢の頭から追いやられてしまった。
一通りの行為が終わる頃には初春の空は既に暮れていた。
若い東野に合わせての立て続けのセックスは暢にはきつくて、疲れ切った身体が休息を求める。このまま少し眠ろうかとベッドの中でうとうととしていると、隣で起きている東野が頭を撫でてくれる。髪に触れる指が優しくて、その心地よさに暢は眠りに入ろうとした。
「暢さん」
小さく落ちてきた声は暢への呼びかけというよりも、東野の独白のような響きだった。だから暢の意識を留めるほどの力を持たなかった。
「俺を、暢さんの特別にしてよ」
小さな響きは暢の耳をくすぐったけれど、何を言われているのか理解する前に暢は眠りに落ちていた。
その日以来、東野は少しずつ変わっていった。
以前からやたらとしつこく暢のことを聞いてきていたけれど、その比ではなくなった。
暢の家に連れていってほしい。自分の家に来てほしい。いつも一緒にいたい。同じ家に住みたい。そんなことを言い出すようになり、暢に迫るようになった。
それが二人の関係では契約違反だと言っても東野は聞き入れない。ついには自分を恋人にしてほしいと言い出して、さすがの暢もこれはまずいと思い始めた。けれど諌めても諌めても東野の態度は変わらない。しまいには暢の行動までも拘束しようとする。
「東野、もう止めよう」
もう危ないところに足を踏み入れていると、危機感に襲われた暢がホテルに呼び出して関係の終了を申し出たが、東野はがんとして首を縦に振らない。
「何でそんなこと言うの、暢さん」
「初めからの約束だろう。どちらかが止めたいと思ったときは、関係を解消するって。東野だってその条件を飲んだ。そうだろう」
「……それは、そうだったかもしれないけど」
言葉を濁した東野は一度顔を背けたけれど、すぐに必死な瞳で暢に訴えかけてくる。
「俺は、嫌だよ。何があっても暢さんとは別れない」
「東野!」
「なんで? 俺は暢さんが好きだ。なのになんで暢さんと別れなきゃいけないんだよ!」
「そうじゃない! 言ったはずだ。初めからそういう約束だって」
「でも!」
「でもじゃないっ」
感情が高ぶって、お互いに声が大きくなって、ホテルの部屋に響く。虚しい言い争いだとわかっていても、これだけは譲れなかった。
「とにかく! 終わりにしよう。もう、会わない。携帯のメモリも削除して……」
「嫌だっ」
短く叫んだ東野が俯いていた暢の肩を掴んで強引にベッドに引き倒す。大きな音を立てて暢の身体が沈み込んだ。衝撃で動けない身体に東野が覆いかぶさってくる。
「ねえ、なんで? なんで俺を恋人にしてくれないの? 俺は暢さんが好き。暢さんも俺を好きになってよ」
そんなことは無理だ。どうしてわかってくれない。初めに、きちんと約束を交わしたのに。
なんで、なんで、なんで。
頭の中では言いたいことが渦巻いているのに、鬼気迫る東野の様子に圧されて言葉が出なかった。
「暢さん! 何か言ってよ! ……暢さん、俺を恋人にして」
暢の肩を掴んだまま揺さぶっていた東野が、一際強くベッドに押し付けてきた。
「恋人にしてよっ」
「無理だ!」
咄嗟に反応して言葉が飛び出した。一度口から言葉が出てしまうと、暢の意思では止められなかった。
「そんなことはできないっ」
「どうして!」
「君を好きになることはできないっ」
言ってしまってからはっとした。東野も同じような顔をしている。それから、泣きそうに顔が歪んだ。
「……どうして?」
「君じゃ、駄目なんだ」
罪悪感で東野の顔を見られない。
暢が顔を背けると、ゆっくりと東野の指が首筋を這った。びくりと動いた身体に指は動きを止め、代わりに噛み付かれた。
「いっ……」
歪めながら顔を戻そうとしたけれど、できなかった。そのまま首筋に東野の舌が触れて、既に慣らされてしまった身体が濡れる感触に震えた。
もう東野との関係を断ち切らなければならないと思うのに、身体は意思を裏切って高ぶろうとする。
「嫌だ、止めろ。止めろ、止めてくれ。東野っ」
腕を突っ張って東野を剥がそうとしたが、若い力にはかなわなかった。こうなったら、と衰えを見せ始めている体力を振り絞って暴れる。
「やめろってば!」
目茶苦茶に手足を動かせば、突然頬に痛みが走った。東野が暢の頬を叩いたのだ。
じんわりと痛みが広がって、熱くなる。見上げれば顔を歪めた東野が、怒ったように告げてくる。
「暴れないでよ」
そのまま乱暴な手つきで暢の服を脱がせていく。
「東野っ。止めろっ……ぐ……っ」
脱がされないように本気で抗うと今度は腹を思い切り殴られた。重い衝撃に息が詰まり、胃の腑がせり上がりそうになる。げほげほと身を折って横に転げる暢を東野はいともたやすく組み敷いた。
スラックスと下着を引きずり下ろして、乾いたままの暢に、東野の高ぶりを見せている性器を後背位から無理矢理ねじ込んだ。
「ああっ」
強烈な痛みに、けれど意識を飛ばすことはできず、慣れた身体は次第に高ぶって暢を絶望的な気分にさせた。