清想空

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open05.04.12
となり 第4話
「もう、やだ……」
グラスを置いてがくりと項垂れると、隣で氷のからりという音がした。
「お前も変わらないね。俺としてはそっちの方が嫌だ」
隣から落ちてくる相変わらずの厭味に、けれど言い返すだけの気力がどうしても湧いてこない。
今の暢は精神的にぼろぼろだった。それだけでもう十分だと思うのに、隣に座る二十年来の友人の川西は満足しないらしい。嫌というほど言葉で暢を傷つける。いや、川西としてはいじっているのかもしれないが、暢が勝手に傷ついている。
「大体、考えてなかったわけじゃないだろう? いつかはこういう日が来るって」
一々正論を言う。
勿論暢だって全く考えないほど馬鹿ではない。でも。
「こんなに早く来るなんて思ってなかったよっ」
「ほんと変わらないな、お前。未知子ちゃんの時も同じこと言ってなかったか」
ため息交じりに言われると、全くと言っていいほど成長していない自分が露見するようで、さすがに恥ずかしい。
「どうせね、俺は変わってませんよ。でもさ、なんで、母娘揃って早く結婚するんだよ……」
口にするとまた絶望的な気分が息を吹き返す。
今朝、多佳子は朝食の席で結婚したい人がいると切り出した。
狙ったように金曜日の朝に言ってきたのが、ショックを受けるだろう暢を思ってのことだろうと想像がついて、嬉しいような悲しいような複雑な気分になる。どうせ多佳子には、報告を受けた暢が今晩川西と飲むことがわかっているに違いない。
どう考えても、養い子に気を遣われているという事実に行き当たり、やる瀬なくなる。
多佳子は今年二十一になったばかりの、社会人二年目だ。なのに、同じ会社の人と結婚することを決めた。
いくらなんでも早すぎだと思う。そんなに生き急がなくてもいいじゃないか、と思う。
でもそれは、おそらく口実なのだ。未知子の人生をなぞるように多佳子が早く結婚してしまって、その先のことを考えたくないのだ。
多佳子の幸せを切に願っている。あまり長く生きられなかった未知子の分も、両手に有り余るほどの幸せをつかみ取ってほしい。そしてまた、未知子の娘である多佳子ならきっと幸せな家庭を持てると思っている。なのに。
手放したくないと思うのは単なるエゴだ。
わかっている。わかっているのに、暢は多佳子が家を出ていってしまう寂しさに潰されそうになって、引き止めたくなる。死別ではないからいつでも会える。けれど暢にとって物理的な距離はそのまま心理的な距離を意味しているように思えた。
「ったく、そんなに他の男に持って行かれたくないなら、その腕の中にでも閉じ込めておけ。逃げ出せないようにな」
聞いた覚えのある言葉に隣を向けば、不機嫌そうな顔の川西の視線にぶつかる。
「お前だって変わってないだろ。未知子のときも同じこと言ってた」
「それでお前はやっぱり『そんなことできるわけない』って答えるんだろう。だけどな、一つ言っておくと、俺は間違ったことは言ってない。自分の腕の中に閉じ込めておくこともできないなら、いい加減割り切れ」
「うーっ」
言い返しようがなくて、暢は小さく唸ることしかできない。
川西の言うことが正しいということは、痛いほどわかっている。けれど、感情は思うようにコントロールできない。多佳子を失えば、自分は本当に一人になってしまう。その恐怖が暢を脅かす。
いじけた気持ちを隠すように暢はグラスの中身を一気に呷った。そのままバーテンに注文した新しい飲み物で勢いを付けようとしたけれど、川西の次の一言で凍り付いた。
「そんなに寂しいなら結婚でもしたらどうだ」
「……結婚はしないよ」
薄々川西だって気が付いているはずだ。暢がその手のことに恐怖にも似た感情を抱いていることに。
暢の中には、「子供を残すこと」に対するわだかまりがある。
仮に結婚して子供を作ったとして、暢が病気や事故で死んでしまったら。子供を置いていくことを考えるだけでもひどく辛い。死んでしまう自分が悔しくて憎らしい。
そして、暢には親に死なれた子供の気持ちが痛いほどわかる。自分も両親を亡くしているし、多佳子のような人間も近くにいる。特に暢は一家の大黒柱になるだろうから、遺された家族が未知子や多佳子のように苦労するのかと思うと、余計に子供は作りたくなかった。
だから暢は、どうしても女性と親密な仲になりたいとは思えない。もし間違って子供ができてしまったら。それを考えるだけで背筋が寒くなる。
そしてまた、失うことに怯えて、一歩も踏み出せない。
「結婚はしない。……そういうお前こそどうなんだよ?」
受け取ったカクテルに口を付けながら問い返してやれば、きつい眼差しが返ってくる。
川西の言いたいことはわかっている。何故お前がそれを聞くんだ、と。でもそれはお互い様だ。どちらからともなく暗黙の了解のように互いに触れまいとしていたことに、先に川西が踏み込んできた。
きっと川西は怒っているのだ。どこかいびつな形の関係を、答えを出すこともせずにずるずると続けてきた暢に怒っている。
「さて、どうかな」
川西は視線を反らした。彼は明確な言葉を口にはしなかった。
「この話はもうおしまいだ。とにかく、俺はお前に散々愚痴って飲んでウサ晴らしする」
きつめのアルコールを再びぐいと呷り、空にした。その様子を見ていた川西が隣でため息をつく。
「言っておくが、俺はお前を慰めるつもりはこれっぽっちもないぞ」
「知ってるよ」
そんなことはもう随分と前から知っている。いつだって川西は暢を慰めようとはしない。むしろ気の済むまで虐めて、暢が少しずつ傷つくのを純粋に楽しんでいる。
川西の人いじりの趣味は相変わらずだけれど、どう考えても暢に対しては生っ粋のサディストの本性を顕していると思う。
「なんだよ、いじめっ子が偉そうに」
「もうすぐ四十一にもなろうって人間がいじめっ子とか言うな。語彙の貧困さが露呈する」
「どうせもうオヤジだよ」
ヤケクソになって言ってみたら、川西が笑った。
「二十年てのは長いな。まさか来生とこんなに長い付き合いになるとは思ってなかった」
「俺も、思ってなかったよ」
バーテンから新しい酒を受け取って、改めて二人のいるバーを見る。
「このバーもよく二十年ももったよな」
暢と川西の出会ったバー、Lanternは不況の煽りをくらいつつも潰れることなく今も営業している。
二十年の間に大分従業員も様変わりした。南井は数年前に引退という形で店を辞め、昔バーテンダーを務めていた坂崎は店長補佐という立場になりフロアにはほとんど顔を出さなくなった。
いつの間にか、色々なものが変わった。
未知子は結婚、出産し、二十八の若さで亡くなった。未知子の忘れ形見の多佳子は、立派に大人になって、結婚する。
そんなことを考えていたら、暢の思考は振出に戻った。
自分だけが置いていかれる寂しさ。多佳子の幸せを願う心。そんなものが暢の中で渦巻いて感情の整理がつかない。
いつまでも同じ問題に捕われている自分に嫌気がさして、グラスを一気に空にした。
「もういい加減にしたらどうだ」
多佳子に何かある度に呼び出される川西は毎度のことに呆れたように告げてきたが、もう少しだけ飲ませろとだけ答えて、暢はカウンターに突っ伏した。
腕にひんやりとした感触が気持ちいい。そのままじっとしていると、唐突に目が熱くなった。それをごまかすように腕に擦り付けると、何を思ったのか川西は
「気分でも悪いのか」
と問いかけてきた。
それに首を振って答えると、川西がため息をつくのがわかった。
「済まないが、お愛想頼む」
川西はこのまま店にいても埒があかないことに気付いたのか、さっさと勘定を済ませた。そして相変わらず突っ伏したままの暢の腕を取った。
「起きてるんだろ。とりあえず引き上げるぞ」
「んー」
川西に促されるままスツールから降りると、ふらっと足元が乱れた。自分で思っていた以上に酔いが回ったようだ。
手を伸ばして川西に縋り付くと、しようがないという表情で暢の肩を抱いた。そのまま暢の鞄も持った川西に手際よく運ばれて、暢は店を出た。
「タクシー拾うぞ」
「そんなに酔ってないよ」
「阿呆。一人で真っ直ぐに歩けないくせに何を言ってる」
真剣に馬鹿にしている雰囲気が伝わってきたから、暢は大人しく川西に抱かれたまま近くの大通りに移動した。金曜日の夜だったけれど予想に反して簡単にタクシーを捕まえることができた。
タクシーに乗り込むとその座席がLanternのスツールとは対照的に柔らかくて、身体から余計な力が抜けた。
独特のタクシーの走行感と、シートの坐り心地が気持ち良くて目を閉じる。投げ出した右手には乗り込んだときのまま川西の手が重なっていた。
そうして落ち着くと流れていく景色と同じように、今までのことが走馬灯のようにフラッシュバックする。
両親が亡くなって、未知子と二人で元生園で生活したこと。まだ十七歳だった未知子が妊娠したこと。十八歳になって入籍し、多佳子が生まれたこと。その三年後に蓬田一彰が亡くなり、未知子が泣きじゃくったこと。しばらくして未知子も亡くなったこと。そして、それから始まった多佳子との生活。
それぞれの光景が浮かんでは消えていき、自然と暢は泣きそうになった。
本当に色々なことがあった。楽しいことも辛く悲しいこともあった。思い出す情景はどれも鮮やかで、それだけ自分の中に克明に刻まれているのだろう。
零れ落ちることはないけれど瞼の裏に涙がたまっていることを川西に悟られたくなくて、顔を窓側に背けた。
どうか、幸せになってほしいと心から思う。未知子の分まで。
本当は手を放すことができないのは自分の方だとわかっているけれど。手放したくないほど愛しい存在だけれど。それでも、自分の元を離れることで多佳子が幸せになれるのなら、それでいい。
多佳子が幸せになりますように。
願いと一緒に閉じた左目からどうしても堪えられなくなった一筋の涙が零れ落ちる。それを悟られないようにそっと左手で拭った。
静かにタクシーが停まる。
暢が寝ていると思ったのか、川西が肩を突いてくる。
「おい、着いたぞ。降りろ」
目を開けてのろのろと開いたドアから降りると、もう見慣れてしまった川西の住むマンションが目の前に立っている。川西も会計をすぐに済ませて降りてきた。タクシーが走り去るのを見送ってから、川西が暢の腕を掴んで歩き出した。
引きずられるような勢いで部屋に連れていかれる。玄関のドアに鍵をかけるや否や、まだ靴も脱いでいないのに激しく口付けられた。壁に押し付けられ、頬に両手をやって顔を上げさせられる。
「ん……っ……」
呼吸まで奪われるようなキスに、苦しくて鼻から声が漏れる。それでも、そんな強引な行為も堪らなく気持ち良くて、川西の背中に回した腕に力を入れた。
しばらくお互いの唇を貧っていたが、さすがに玄関で行為に及ぶほど若くはなく、靴を脱ぎ捨てるようにして寝室に移動した。
こんな、悲しいことがあった日は、目茶苦茶にしてほしかった。それこそ頭が真っ白になって何も考えられなくなるくらい、泣かせてほしかった。堪えた涙が枯れるほど、全てを吐き出したかった。
川西も今までの経験から知っているのか、いつにもましてひどいやり方で暢を追い詰めた。
「腕、首に回せ」
痛みと快感に出始めた涙が止まらなくなった暢に、川西は幾分優しい声をかけてきた。
頭の上で一つにまとめられた両腕は、暴れたせいで赤くなっていて痛みを訴えている。腕を上げるのにも痛んで顔が歪む。外してほしいと頼んでも聞き入れられず、酷いと繰り返しすすり泣きながら腕の輪の中に川西の頭を通した。
満足したのか川西は笑って思い切り腰を突き動かし始めた。ベッドがぎしぎしと音を立てる。
「ああっ……あっ……いた……い……っ」
激しい動きが辛い。足を命一杯開かされ、あげくに腰が浮くほど持ち上げられる姿勢も、身体が上下に動くのも辛くて、思わず川西の背中に爪を立てた。
「……っ」
痛みに一瞬川西の動きが止まったけれど、特に何も言われない。そのまま爪を立てているとすぐに動きが再開され、動く自分の身体につられて爪の先も動いて川西の背中に短い引っ掻き傷を残す。
「か……わに……っ」
もう何を言いたいのかわからないくらい頭の中は行為でぐちゃぐちゃだけれど、傍にある温もりだけは放したくないと痛む腕に力を入れて川西を引き寄せる。素直に肌を密着させた川西は間近で暢の瞳を覗き込んでくる。
「こういうときくらい、名前で呼べよ」
初めて言われた。
今まで、それこそ数えられないほど肌を重ねてきたけれど、一度も川西のことを名前で呼んだことはない。川西も自分のことを暢と呼んだことはなかった。
それがなんで今になってそんなことを言い出すのか。
暢は何も考えられないのに、必死になって首を振った。
川西を名前で呼ぶことはできない。それは暢の中での禁忌であり、自分への戒めでもある。それだけは破ることはできない。
必死に首を横に振る暢に、川西は小刻みに身体を突いて呼ぶように強いてくる。
「ほら、呼べって」
「い……や……でき……ない……っ」
川西によってもたらされる刺激に身悶えながらも言葉で拒絶すると、川西が動きを止めた。その表情が怒っているような、悲しいような色をたたえていて、暢は何か言わなければならないと思った。
けれど言葉は、川西が
「まったく……強情だな」
と言って身体を大きく動かしたせいで、ちゃんとした言葉にはならなかった。
「あっ……あっ……ああっ」
そのまま激しく揺さぶられて射精したときには疲れきっていて、腕の拘束を解いてもらうと同時に暢の意識は暗闇に吸い込まれていった。
 
 
 
その年の六月に多佳子は結婚し、九月に川西が結婚した。
 
 
 
川西が結婚するという話を知ったのは本人の口からではなかった。
七月の暑い日に一枚の葉書が届いた。
結婚式の出欠確認の葉書の差出人は、間違いなく川西だった。
頭が真っ白になった。
なんで、どうして、という問いばかりが頭の中で渦を巻いて、はらりと葉書が手から零れ落ちた。周りの音が何もかも消えて、世界に自分しかいないのではないかと思うような静寂に包まれる。
けれどそれもほんの少しの間で、外から小さく聞こえる蝉の声に我に返った。床に落ちてしまった葉書を拾って、もう一度内容を確かめる。
文面はパソコン辺りで作成したのだろうありきたりなもので、ただ余白の部分に川西の字でぜひ参列してほしいと書いてあった。
散々悩んだ果てに、暢は結婚式には顔を出そうと決め、出席に丸を付けて葉書を送り返した。
川西が結婚するという事実の衝撃はなかなか暢の中から消え去らなかったけれど、なんとかやり過ごした。
川西に裏切られたとは思わなかった。
ただ自分のしてきたことに対する罰なんだろうと漠然と思った。
そう、自分が川西を傷つけてきた報いだと。
そして、本当に一人になってしまったと感じていた。なんだか自分が空っぽになってしまったようだった。
九月に行われた結婚式は適度な盛り上がりを見せた。暢は顔見知りもいなかった――高校の時のクラスメートはいたものの、暢が覚えていたのはほとんどいなかった――ので披露宴だけ出て、その後の騒ぎには参加せずその場を後にした。
帰りに自宅近くのコンビニエンスストアで酒を買ってから帰宅した。
新婦の旧姓須藤香苗<すどうかなえ>は勝ち気そうな美人の二十九歳で、暢と同い年の川西とは一回りも違った。それでも川西は年の割には若く見えるから、年が離れすぎているという違和感はなく、美男美女のカップルはお似合いだった。
けれど年の差よりも暢が驚いたのは、香苗が妊娠五ヶ月だったことだ。
香苗は川西と同じ部署の後輩に当たるため、式には会社関係の人間が多く来ていた。それらしき人達の会話から漏れ聞こえてきた話を繋ぎ合わせると、六月頃に二人の関係が一気に進んだらしく、どうやらその頃に妊娠が発覚したようだった。
今風に言えば出来ちゃった結婚だ。
じゃあ未知子も出来ちゃった婚だったんだな、と何気なく思う。それから、何でよりにもよって九月に結婚するんだ、と心の中で川西に愚痴ってみた。
未知子が結婚したのも九月だった。未知子が若かったことや金銭的なことで式を挙げることはできなかったけれど、正式に入籍したのが九月だった。
九月にあまりいいとは思えない思い入れができそうだと思うと、少し寂しくなる。
そして、川西が暢と肌を重ねながらも香苗と関係を持っていたと思うと、自分勝手だとわかっているにも関わらず涙が零れた。