もう一度会えたら、その後に 第1話
エレベーターから降りた村野光琉<むらのみつる>は手にしていたセキュリティカードをドア横に設置されている読取機にあてた。
ピッという読取音とともに錠の回る音がしてセキュリティが解除される。光琉はドアを開けてざわめく営業フロアの中へと足を踏み入れた。
「お、村野ちゃーん」
数歩行ったところで背後から名を呼ばれて振り返れば、隣の課の課長である出口<でぐち>がカップを手に部屋に入ってきたところだった。どうやら給湯室から戻ってきたところらしく、熱そうな仕草で口を付けている。
立ち飲みという行儀の悪さなのに、すらりとした長身で美男の出口がやると嫌になるほど様になる。
「出口さん、お疲れ様です」
「今来たとこ?」
「ええ」
横に並んだ出口と連れ立って歩き、途中で出退勤ボードのネームプレートをひっくり返す。出口は当然のように光琉についてきて、光琉の席の横にある袖机に腰を引っかけた。たいして気取った仕草でもないはずなのに出口の長い脚のせいでスタイリッシュに見える。
こういうとき容姿がいいっていうのは得だよな。
椅子の背にコートを掛けながら横目にした光景に、光琉は何度目かわからない感想を抱いた。少なくとも光琉がこういう仕草をしても人目を引くようなことはあるまい。
「村野ちゃんさあ、この時間から来るくらいなら今日は休めばよかったのに」
カップに口を付けながら出口が呆れえたように話しかけてくる。
時刻は午後二時より少し前。この時間から出社するのはたしかにかなり面倒くさい。
「だって、土曜日も出たんでしょ」
「よく知ってますね」
「まあね。添島<そえじま>もさあ、土曜出てるんだから休ませてやればいいのにねえ」
一度鞄を椅子に置いてデスクトップパソコンの起動ボタンを押しながら答えた光琉に、出口が軽い口調で返してきた。
「まったくもって気の利かない男だよねえ」
添島とは営業第五課の課長で、光琉の直属の上司にあたる。年齢は出口よりも二、三歳上の三十台半ば手前なのだが、添島と出口はどちらも中途採用で同時期に入社してきたので、二人は社内では同期だ。そのせいか、こういった会話のときには双方遠慮がない。まるで鼻歌でも歌うような気軽さで辛辣なことを言う。
「いえ、添島さんは休むようにおっしゃってくれたんです。でも、月曜日は仕事がたまるので半休にしてもらったんですよ」
「えー、そうなの? でもさ、村野ちゃん。添島には、嫌なことは嫌って言わないとだめだよ?」
光琉が先週の土曜日に出社することになったのが添島の急ぎの案件に対応するためだったことに引っかけているのだろう。けれどそんなことはこの会社ではよくあることだし、ちゃんとした仕事なので光琉はあまり気にしていない。
連勤で疲れがたまることもあるが、添島はきちんと代休を取らせてくれる上司なので帳尻は合っていると思う。
光琉としてはむしろ、出口と添島との間でいろいろな話が筒抜けになることの方を問題視したい。一体どんな情報交換システムを構築しているのか知らないが、二人の間で驚異のスピードで情報共有されているのが恐ろしい。
たしかに仕事の上では情報共有はとても大事なのだが、仕事に関係ないことでもそれが遺憾無く発揮されるので、何がどういう風に相手に伝わっているのかわからない怖さがあるのだ。
とは言えそんな本音を自分より上級職者である出口にいう訳にもいかず、光琉は曖昧に苦笑してごまかした。
「はは、そうですかねえ?」
光琉は話をそらすように椅子の上の鞄を机の下にしまおうと腰を屈めた。その途端腰に突き刺すような痛みが走った。
「いっ」
取り繕うこともできずに思わず叫んでしまった。
ずきりとした内側の痛みに息が止まりそうになりながら、咄嗟に手をあてて腰に響かないようにゆっくりと身を起こした。
いきなり叫んだ光琉に驚いたらしい出口がぎょっとした顔をしている。
「どったの、村野ちゃん」
「ちょっと、……腰が、痛くて」
痛みの余韻に言葉が途切れ途切れになってしまった。心配そうな顔で出口がのぞき込んでくる。
「ええ? ちょっと、大丈夫?」
「はい、あの、……昨日、ちょっと重い荷物を、持ったせいで……」
まさか十年ぶりに再会したかつての同級生に犯されて腰が痛いなどとはとてもではないが言えず、しどろもどろになりながら光琉はごまかした。
「そうなの? ちゃんと湿布貼って寝た?」
「貼ったんですけど、なかなか痛みがひかなくて」
「気をつけなよー。若いうちに腰痛持ちになっちゃうと大変らしいから。ていうか、まだそんなに腰痛いなら、本当に休んだ方が良かったんじゃないの」
「いやー、そこは仕事なので……。今日休むとやっぱりきついし、明日は火曜だし」
体調を考えれば休みたいのは山々だったが、出口に言ったことも本当だ。とにかく月曜日は仕事がたまる。うっかり休むと翌日仕事を回すのが厳しくなって、結果的に自分の首を絞めることになる。
特に火曜日は週に一回の営業事務による合同ミーティングがあるため、使える時間がかなり制限される。それを考えればおちおちと寝てはいられなかった。一日中ベッドの中で休みたがる身をおして出社したのは、そういう事情からだ。
「ああ、そうか、火曜か。火曜はそっちが大変だよねえ」
出口は納得したのか同情するように苦笑した。
「ええ、まあ」
「お疲れさん。そんなことより、村野ちゃん」
「はい?」
出口は真面目な顔で光琉に向き直った。
「早くうちの課にきてー。村野ちゃんみたいに優秀な営業事務が今のうちには必要なんだよ」
「!」
出口のはっきりとした声で吐き出された言葉にぎょっとして、慌てて隣にお課に視線を巡らせる。
席には誰もおらず、そのことに光琉は心底安堵した。幸いなことに出口の声が聞こえるような近くには他にも人がおらず、爆弾発言は誰にも聞かれずに済んだようだ。
さすがに今のを出口の課の営業事務が聞いていたら嫌な気分になっただろう。運が良かった。勿論出口も人がいないことを承知で口にしたのだろうとは思うが。
それにしてもいきなりなんだというのだろうか。
同じ転職組ということもあって、年齢は違えど光琉も出口とはそれなりに仲良くさせてもらっている。添島も含めて一緒に飲みに行った席でふざけてこういうことを言われることはこれまでにも何度かあったが、こんな風に職場でど直球の言葉で言われたのは初めてだ。
疑問に思いつつ、下手に藪をつついて変なものが出てきても困るので、光琉はいつも通りに言葉を濁した。
「はあ、いや、そんなこと俺に言われてもですね。俺にそんな決定権ありませんから」
実力のある出口に声を掛けててもらえるのは実力を認められているようで嬉しいが、かといっておいそれとそれに応えることもできない。何かにつけこうして光琉を構ってくる出口のことだから、これも言葉遊びの一環なのだろうとわかってはいるのだが。
「それにほら、出口さんのとこには西宮<にしみや>さんがいるじゃないですか」
西宮は三十代後半の男性ベテラン営業事務だ。ちょっとばかりふくよか過ぎる体型がチャームポイントと言い張る彼は、一見穏やかそうに見えるが仕事には鬼のように厳しく、早くて正確な仕事をすることで有名だ。営業事務の中でも全幅の信頼を置かれている人間だ。
そのため、新人の営業事務の何人かは西宮の下について仕事を叩き込まれるのがここ数年の習わしになっている。光琉も入社当初は彼にびしばしとしごかれた一人で、一通り仕事ができる合格ラインになるまで面倒を見てもらった。
「まあねえ、西宮さんはすごくできるんだけどね。さすがに一人で七人の営業を支えるのは繁忙時が厳しいんだよ。うちの課は特にボリュームがあるからね」
ため息をつく出口に疑問を抱いた。出口の課には西宮の他にも営業事務がいたはずだ。
不思議に思って隣の課に視線を走らせる。ふと視界にフロアの雰囲気にそぐわない奇妙にかわいらしく飾られた机が引っかかった。
――ああ、尾垣<おがき>さんか……。
その机の使用者を思い出して、光琉は出口がぼやきたくなるのもわからなくはないと納得してしまった。
それが表情に出ていたのか、出口が一つ頷く。
「だからさあ、おねがーい、村野ちゃん。俺のためにうちに来て~」
「いやいや、だからですね、俺にはどうにもできませんて」
「そんなこと言わずに、添島に見切りつけてさ!」
見切りってなんだ。見切りって。無能ならともかく、仕事のできる上司につける見切りなど光琉は持ち合わせていない。
「とりあえずそれはない方向で」
光琉は一刀両断した。
「えー、なんでえ」
「なんでって、……あ」
ためらうことなくすっぱりと断る光琉に抗議する出口の頭のてっぺんに、後ろからスコンと手刀が落ちた。添島だ。
「またそんなこと言ってるのか」
出口の後ろにいた添島が横に移動しながら呆れたように言った。
「主張するだけならタダだしー。ていうか、暴力はんたーい」
「何回言われようと村野はうちの課からは出さないぞ」
「ええー、けちー。添島、お前狭量だぞ」
「お前に言われたくないわ」
添島が心底嫌そうな顔をした。
「なんだとー。俺のどこが狭量だ」
「……自分のやったことも忘れたとはいい度胸だな」
そんなやり取りをしながら二人はあっさりと別の話題に移った。
それを機に光琉は腰を庇いつつ椅子に座り、二人の他愛ない会話に耳を傾けながらパソコンにIDとパスワードを入力する。
ログインして受信メールを確認しようとしたところで机上の電話が鳴り出したので、横の二人に軽く頭を下げてから近くにある親機の受話器を取った。
「相変わらずすごい電話だよね」
電話の応対をする光琉を見た出口がそうもらすのが聞こえた。
実は光琉の電話対応は社内での評価がかなり高い。と言っても最初に就職した会社で『とにかく明るく元気に大きな声で話す』という電話の仕方を徹底的に叩きこまれたその遺産だ。おかげで電話対応だけは入社当時からやたらと評価が高かった。
その代わりおとなしめな普段のキャラクターとのギャップが大きいため、添島も出口も光琉が電話に出ているのを初めて見たときは驚いていた。どうせなら普段から電話のときのような元気の良さで仕事をしろと言われたので、それは無理だと断ったこともある。
他の課の人間に電話を取り次いだ光琉が受話器を下ろすと、すでに添島と出口は各自の席に戻っていた。
「ふう」
息をついた光琉は気を取り直して、朝のうちにたまった仕事を片付けるための作業を開始した。