清想空

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open05.04.12
自家中毒
『男を好きで何が悪いの。男を好きでも女を好きでもニカさんはニカさんでしょ。俺はニカさん好きだよ』
西日の差しこむ人気のない教室で、事もなげに少年は言い放った。その真顔に、二科紗<にしなすず>は自分が解放されるのを感じた。
少年――当時まだ高校生になったばかりの村野竜琉<むらのたつる>は、昔からこういうことには聡い方だった。たまに二科がどきりとするようなことを口にする人間で、それは大人になった今でも変わらない。
まだ子供のくせに、大学生の自分に何を言うんだとその時は思った。
けれど二科は村野の言葉で変わった。
男を好きで何が悪い、自分らしく生きなければ人生損だ、そんな風に開き直るきっかけを与えてもらった。同性ばかりに目が行ってしまう自分に、その性癖に気付き、常識や倫理感に雁字搦めにされて辛かった自分を、少しだけ許すことができた。
同時に、二科は開けてはならない禁断の箱が自分の中にあったことを知ってしまったのだった。そして、その箱に眠っていた中身が何なのかも。
それは一度口にしてしまえば手放せなくなる果実のように甘美で、身体を少しずつ蝕んでいく毒。
――ねえ。甘い甘い毒を持つ果実を諦め切れなくて、それが苦しくてしようがないのに、それでもその果実だけが人生の中のよすがであるようにその側から離れられない僕は愚か?
――イエス。
わかっている。二科は自分がどれ程愚かで滑稽かをきちんと理解している。けれどその身は毒されたまま。望むままに毒に侵食される。
逃げることを考えても、毒を持つ果実から離れられない自分を知っている。だから二科はそれを知ったときから、離れることを諦めた。
その代わりに果実だけに目が奪われないように、気を逸らすために色んな男と寝るようになった。まるでそれまでの慎み深かった自分を捨てるように。
幸いなことに整い過ぎていると評されることもある容姿は、男の欲情を誘うには十分だった。それを利用して、気に入った相手となら誰とでも、気ままに。
一時でも忘れたいから快楽でごまかす。そうしていれば楽になれるから。
けれど二科の奥底はいつまでも捕われたまま。いつになったら自分で作った檻から出られるのか。
そう思うのに、瞼の裏に想い描く姿に胸を締め付けられるから、結局逃げ出すことは出来ないのだった。
 
 
 
これの始まりがどこなのか。
二科が生まれたときなのか。幼少の頃か。学生時代か。自分の性癖に気付いた時か。それとも父親との相互理解が無理だと悟った時か。
どれもが正解で、どれもが正解ではないのだろう。きっと、『いつから』なんてわからない。
けれどこれだけはわかる。始まりのきっかけはおそらく『父親』なのだ。
二科は小学生の頃から父親が大嫌いだった。早くいなくなればいい、真剣にそう思うことも少なくなかった。
人が傷つくことを平気で口にする父親は、何気ない口調で悪気なく言葉を放ち、幼い二科を傷つけた。人が気にしていることを、人の心を切り裂くことを、平気な顔で言う。それがどれ程、人の心に傷をつけるのか知りもしない。考えもしない。
だから大嫌いだった。
そもそも幼い頃から父親とは疎遠だった。父親が家にいた記憶はあまりなかったし、遊んでもらったこともない。家にいる時はどこか空気がぴりぴりしていて、怖くて二科は近寄らないようにしていた。
友達の話に出てくるような温かい父親像など、二科にとってはどこか絵空事のような遠さだった。
そんな父親に傷つけられる自分のことも二科は嫌いだった。父親がそれだけ自分にとって影響力のある存在だという事実が嫌でたまらない。けれどそれ以上に、人を簡単に傷つける父親を許せないと思っていた。
そうした家族としての結びつきなどほとんどなかった父親との付き合いは、二科の就職を巡っての発言で途絶えたと言ってもいいほどにまでなった。
『いい大学に入っておきながら、そんな名前も聞いたこともない会社にしか入れないなんて恥だ!』
二科たちの代は就職難の幕開けとも言える時期だった。いくら名の知れた大学でも、それにあぐらをかいていては就職することすら厳しい状況下だ。その中でなんとか小規模の会社の内定をとることのできた二科は、同じ大学の中でもまだいい方だった。
ところが父親はそれを恥だと罵り、一蹴した。
別に父親に褒めてもらいたかったわけじゃない。そんなこと望んでいなかったし、期待してもいなかった。ただ事務的な報告をしたかっただけだ。扶養してもらっている以上、それは義務だと思っていた。
それでも頭ごなしに言われて、二科は腹が立つより前に泣きたくなった。
――どうしてこんなに人を傷つけることが言えるのだろう。どうして僕はこんなに傷つけられなければいけないんだろう。
その時になって気付いた。父親の世界は彼を中心に回っていて、他の価値観を受け入れないのだと。自分にとって当たり前のことは他の人間にもそうだと決め付ける。そして、自分の発言が誰かを傷つけるなんて想像すらしない。
それ以降、二科は父親と話をしなくなった。
何を話したところで理解してもらえるとは思えなかったし、父親という人間を理解できないと思った。それに、もう無闇に傷つけられたくはなかった。この歳になってもまだ父親の発言に傷つく自分にもうんざりしたし、いい加減離れたいと思った。
そしてそれでも尚うるさい父親の言葉から逃れるために、二科は就職を機に家を出た。
その後も、三十歳を前にしても結婚の気配も見えないことに口を出したり、いまだに勤めのことに文句を言ったりと、事あるごとに色々と言われたけれど、それには耳を塞ぎ、口を閉ざしてやり過ごした。
そんな風に父親の発言に傷つけられていたのは母親も兄の祥啓<しょうけい>も同じだった。だから二ヶ月前、夏の終わり頃に仕事が趣味だというような父親が脳の血管を詰まらせて倒れ、そのままあまりにあっさりと亡くなったときには、皆心なしかほっとしたのだ。
二科に至っては、悲しいという感情は最後まで湧いてこなかった。むしろようやく解放されたのだと思った。
父親の死は家族に一時の安寧をもたらしたのだった。
死んだ人間を悪く言うのは良くないと言うけれど、二科から見た父親は最低の人だった。人間としてはまだいい方だが、父親としては最悪の部類に入ると思う。
二科に言わせればあれは父親ではなく、父親というポジションにいた人間に過ぎない。父親と呼ばれるだけのことを彼がしたとは到底思えず、ただ家族を金銭面で支えただけの人間としか認識できなかった。
そんな二科にとって、より父親らしかったのは兄の祥啓の方だった。
祥啓はとても柔らかい雰囲気の持ち主で、怒ると少し、いや、かなり恐いけれど、優しい人だ。子供の頃によく耳にした、二科が羨ましく思った父親像を彷彿とさせる感じの人で、五歳しか違わないけれど色々と二科の面倒を見てくれた兄だ。
実際のところ、二科にとって憧れた父親は祥啓そのものだったのかも、しれない。
だから二科はその柔らかな雰囲気の腕に抱きしめられたいと、思うのかもしれなかった。
憧れて憧れて、無意識に求めて、それで劣情を覚えるなんて、ただの浅ましい人間だと思う。ただただ求める気持ちが血の繋がった実の兄への欲情にすりかわったなんて、どうかしてるとしか思えない。けれど得たくても得られなかったものは、やはり二科の中では大きな位置を占めるから、渇望にも似た気持ちで祥啓を見てしまうのはどうしようもなかった。
――あの腕に抱かれたいんだ。
自覚してしまえば止められない想い。
もう恋心とは言えないような、複雑に絡まってしまった想い。どろどろしていて、醜い。その感情は綺麗な言葉では表せなくて、単なる色欲に属されるような欲望を含む。それでも求める気持ちや心は本当だから、止められない。
打ち明けようとか、奪い去ろうとは思わない。
既に結婚し、女児をもうけた祥啓は二科の目から見ると理想の父親で、そんな優しい父親を姪っ子から奪いたくはない。そんなことをして二科と同じような思いはさせたくはなかった。
二科のような人間はどこか歪んでしまうから。まるで呪縛のようにファザーコンプレックスを抱き続けるから。そんな思いをするは自分だけでいい。それは本心だ。
ただ傍にいられればいい。贅沢は言わない。家族として愛してもらえればいい。本当はそれだけでは満足できないけれど、文句は言わない。
だからせめて目が祥啓を追ってしまうのは許してほしい。そこに気付かれる程の愛情を込めないように、盗み見るくらいに留めるから、駄目な弟を優しい眼差しで見守っていてほしい。
諦めることも、だからと言って奪うことも出来ないから、二科は自分の中にある気持ちに目をつむり続けるしかない。少しずつ少しずつ祥啓への想いが二科の身体を満たしていくけれど、それには蓋をして、見ない振りをして、気付かない振り。それで今の二科と祥啓の関係が保たれるならそれでいい。
たとえ二科の根底が祥啓に縛られていても、心も身体も彼を求めていても。本当は目に見えない糸で雁字搦めにされているのだとしても、素知らぬ振りで他の人と寝る。そうやって甘すぎる果実にとらわれないように目をそむけ続ける。二科にはそれしか出来ないから。
段々と身体の自由を奪う毒は、祥啓への想い。
それから逃げ切れないのは結局の所、彼を愛しているから。抱かれたいと思う自分を二科が捨て切れないから。二科の作る檻に二科自身が捕われる自家中毒。自分で自分を追い込んで、それでも逃げようとあがく。
傍から見れば滑稽だ。そう、滑稽で、馬鹿らしくて、愚かしい。
でも。どうしようもなく愛しくて、その腕の中に閉じ込められたいと思ってしまうから。
「兄さん……祥啓……さん」
そっと口にするのは抱かれたいと思う人の名前。
いつになったら解放されるのか。そう思うのに、解放されたくないと思っている。そんな愚かしい自分を嘲笑いながら、二科は自分を抱きしめた。
どうせなら、誰かに攫われてしまいたい。そうでもしなければこの檻を壊すことはできないから。甘い果実の側を離れることはできないから。
だからどうか。
誰か二科の前に現れて、まるで暴力のように傷つけて目を離せないようにして。そうしてもう一度、二科を救って欲しい。
この自家中毒という、甘くて逃れがたい魅惑の毒から――。