清想空

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open05.04.12
胸の奥底に涌き出づる苦みは誰のために。 中編
一瞬で頭が熱くなり、つられるように体温までも上がる。秀一は咄嗟に顔を退き、顎に掛けられた手を払った。
どうして、今更。
なぜ、そんなことを。
視界が真っ赤になるような気がした。感情の振れに体がそれまでとは違う意味で震えた。
全く反応しなかった秀一の突然の抵抗に行久は怯んだようだった。外された手を見てから、秀一に視線をやってくる。その視線には、なぜ払われたのかわからないというような思いが込められているような気がした。
それすらも秀一の不快感を煽った。
何が「好き」、だっ。馬鹿にしてるのか!
一気に激情が秀一の身を満たす。
今までどこかに置き忘れていた怒りという気持ちが急激に沸点にまで至ったような、そんな思いのまま秀一は全身を使って行久を背後へと突き飛ばした。肘が行久のわき腹の辺りに当るのを感じた。
それに驚いたのか行久が声を上げた。後ろへと倒れそうになる体を庇おうとして解かれた腕から逃げ出し、秀一は背中を軽くキッチン台にぶつけて顔を歪めている行久を睨み付けた。
自分勝手で、秀一のことを何一つわかっていない男を呪い殺してやりたいような気持ちで睨んだ。
行久は優哉が好きなくせに!
「何言ってんだよ!? お前にはユウがいるだろうっ」
けれど睨まれた本人は不思議そうな顔をして、なんでそこで優哉が出てくるんだと問い返してくる。
何年もかけて落ち着いた心が再び千々に乱れそうになるのを繋ぎ留めるように胸を押さえながら、激情を言葉にした。
聞くのが怖くて今まで触れられなかったことを身を切るような思いで口にしたのに、行久はわからないという表情で顔を傾けている。
行久には優哉がいるくせに、からかっているのか。それとも双子だから、顔が同じだから、相手をするのはどちらでもいいとでも考えているのだろうか。優哉だけでなく自分も身代わりとして使われるということだろうか。
……行久が何を考えているのかわからない。
浮かんでは消える考えに自分で傷ついて、一つの怒りでまとまりかけた頭の中はまた一瞬でぐちゃぐちゃになった。
行久に好きだと言われたことも、抱きしめられたことも、今の秀一に理解できることは何一つとしてなかった。
なのに、行久も訳がわからないという顔をしているから余計に腹が立つ。
行久が全部悪いのに! お前が俺たちのそばにいたから、こんなことになった。
そんな気持ちが、押し殺していたものを口に出させた。
「お前とユウがこそこそしてたの、俺が知らないとでも思ってたのかよ……!」
秀一がずっと胸にしまってきたことを聞いた行久はわずかに目を見開いて、しまったというような顔をする。
秀一に知られていたことが、そんなに気まずいのだろうか。それでも、と思う。
お前たちが付き合ってるという事実は消えないのに。
もうわかりきったこと、乗り越えたはずの過去なのに、改めて現実を突き付けられるような痛みを覚え、秀一は初めて気が付いた。
完治したはずの古傷がまだじくじくと痛むことに。
無意識に力を込めていた手に気付いて、胸から外した。そんなに暖かくない室内なのに、その手はじっとりと汗をかいていた。感情が、暴れているせいだろう。
けれど行久はそんな秀一には気付かないのか、困ったような顔で続けた。
「……秀一は何か勘違いしてる。それは、優哉が俺の邪魔をしてただけで」
「何だよ?! 邪魔って」
優哉が何を邪魔しようとしたというのか。
「優哉は俺のことを警戒してた。あいつは知ってたんだ。俺がお前のこと好きだって」
「ユウが?」
「だから、俺と優哉の間には何があったわけでもない。お前の勘違いだ。俺はお前が好きなんだ」
お前だけだと近寄られて、じっと目を覗き込まれて、ようやくそれがからかいなどではなくて真に秀一に投げかけられているものだとわかり、秀一は泣きそうになった。
がらがらと何かが崩れる音がする気がした。
それが心の一部だとわかって、秀一はすべてを破壊してしまいたいような気持ちにすらなった。
何を今更。
そう、今更なのだ。
もう、秀一の想いは捨ててしまった。今更行久の想いを告げられたところで、戻ってはこない。
そしてまた、二度とその心が戻らないようにと、秀一は倦んだ傷に塩を塗り込めるような行為を繰り返してきたというのに。何故今になってその努力を踏みにじるようなことをするのか。
これじゃあ、まるで道化みたいじゃないか……。
歪つな考えにまた胸が痛んだ。
「秀一……」
顔を歪めた秀一に眉を寄せた行久は何を思ったのか、もう一度抱きしめるかのように腕を伸ばしてくる。
秀一はそれを思い切り薙ぎ払った。感情の高ぶりと痛む傷に目が潤むのを感じながら、行久を拒絶した。
「今更! 今更そんなことっ言われたっ……て、なあっ」
腹が立って、悲しくて、言いたいことがありすぎて、言葉が不自然に途切れた。そのことにも腹が立って、秀一は恥も外聞もなく叫んだ。
もう何に怒っているのかもわからない。まるで今まで溜めていたものが、擦り切れた気持ちが、堰を切って溢れ出したようだった。
「遅いんだよ!」
それが自分の気持ちを暗に告白していることにすら気付かなかった。行久の驚いた顔も、珍しく声を荒げた自分に対してのものだろうとしか考えなかった。
「秀一?」
「帰れ!」
再び伸ばされた手を振り払う。収拾のつかない頭のまま、秀一はもう何も考えたくないとだけ思った。
今は一人になりたい。ただそれだけを考えて、秀一は叫んだ。
「もう帰れ! 顔見たくないから帰れ!! 帰れよっ」
最後の方は絶叫に近かった。
喉が痛んだ。泣きたかった。
こんな風に声を荒げたのは初めてだ。誰に対しても、仲の良かった頃の行久と喧嘩したときでもこんな風に爆発したことはなかった。
だからかもしれない。秀一本人にもコントロールできなかった。
「おい……秀一……」
さすがの行久も、初めて目にする秀一の異常さに気が付いてどうしようという顔をする。
けれど肩で息をしながら、なおも潤んだ目で睨み付ける秀一を見て、行久は手を伸ばすことを諦めた。
興奮している状態の秀一に何を話しても無駄だと悟ったのだろうか。
気の立った獣のように落ち着く気配の見えない秀一に、また来るからと言って、行久は渋々といった体で部屋を出ていった。
少しして玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
まるでそれが合図になったかのように脱力感が生まれる。
泣きたいと思った。けれど。
「は……はは……」
口から乾いた笑いが漏れる。
秀一はうなだれて近くの壁にもたれ掛かった。
感情の高ぶりのせいで盛り上がった涙はけれど不思議と零れることはなく、目を潤ませるだけだ。今にも溢れ出しそうな気持ちも、涙に呼応するように零れ落ちることはなく、身の内で渦を巻いて気が狂いそうになる。
「……ちくしょう!」
キッチン台の側面を叩くと、載っていた食器が耳障りな音を立てて動いた。けれどそれも秀一の行動を止めるには至らない。
「何がっ何が! 今更なんだよ!! ホント、今更……っ」
キッチン台を何度も叩いて、やり場のない想いに身を震わせた。
「クソッ」
繰り返し叩いた手が痛みを訴え、それが秀一をほんの少し現実に引きずり戻した。
「あああああぁ……」
泣きたいときの子供のようにしゃがみ込むと、どうにもならない怒りとやる瀬なさが意味のない言葉となって口から零れた。
そうして吐き出してもまだ収まらない激情に、秀一は震えの止まらない手で携帯電話を取り出した。
 
 
 
いささか乱暴に開いた店のドアに、カウンター席でくだらない駆け引きを楽しんでいた二科を含め近くにいた数人が店の出入口に視線を集中させた。
今日はこのカジュアルバーを貸し切りにしているから、部外者は入ってこないはずで、既に村野が予定していたメンツは揃っていた。
一体誰が入って来たのか。
程よい暗闇に目を凝らすと、二科はその顔に見覚えがあることに気付いた。
「あれ? 秀一君?」
そこにいるはずのない人物に二科は目をしばたたいた。
隣に座る男が二科の呟きに、知ってる人かと囁いてくる。それに頷きだけを返した二科が秀一に声をかけようとしたら、当の本人と目が合った。
少しの距離と暗闇が二人の間にはあったけれど、秀一にもそこにいるのが二科だとわかったようだ。カウンター周りが他に比べると若干明るめだったのも、二科の存在を知らせるにはよかったのかもしれない。
二科に気付いた秀一は常とは違って、視線が集中したにも関わらずそんなことを気にするような様子も見せず、一直線に二科の元に向かってくる。
「なんかこっちに来るけど、二科さんの知り合い?」
脇目も振らず向かってくる秀一に、隣の男も目当てが二科だということに気付いたらしい。
「……まあ、そんなところ」
「ふうん」
それだけ言うと男はいい雰囲気を邪魔されたのに気を悪くしたのか、秀一を一瞥するとまたカウンターの方に向き直ってグラスを傾け始める。
二科はそんな狭量な年下の男にわからないように小さく苦笑いを零して、秀一に視線を戻した。
「それにしてもどうしたの、秀一君。お帰りなさい会は来週じゃなかったっけ?」
「俺が教えたんですよ」
秀一の様子が妙なのに気付いた二科が近くまで来ている彼に問いかけながら立ち上がると、さりげなく村野が近寄ってきた。背後から耳打ちするような体勢で、秀一から電話が入ったことを伝えてくる。
「ああ、さっきの電話? 秀一君からだったのか」
「まあ。……なんか、様子が普通じゃなくて、とにかくニカさんに会いたいって言うんで」
「そうか」
確かに秀一の様子はいつもとは違う。
二科もそれを認めて、村野は正しかったのだろうと判断する。
いや、それ以前に秀一が会いたいというのであれば、二科はそれを断る気にはならない。秀一は二科の前身であり、そのものだったからだ。
「たしか今日帰ってきたんだよね?」
「そのはずですよ。だから帰還会は来週にしたんですから」
「……何か、あったのかな」
「どうでしょうねえ……」
村野もどうなんだか、とため息をついた。
割と温厚な性格の秀一が突然、村野に連絡してくるからには何かがあったとしか考えられなかった。けれどその「何か」の見当がまったく付かなかった。
一体何があったのだろうと考えたところでいきなり正面から肩を強い力で掴まれて、村野に視線をやっていた二科は衝撃に息を詰まらせた。
きりきりと爪が食い込むような痛みを覚えて視線を戻すと、眼前には焦燥に駆られたような秀一の顔があり、二科は顔をしかめた。
こんな顔は今まで見たことがなかった。
「秀一君? どうしたの?」
「もう一度」
秀一がぼそりと呟いた言葉の意味がわからず問い直そうとしたら、再び衝撃が二科を襲った。
「っ……」
歯ががちりと当たって唇が痛みを訴えた。
一瞬何が起きたのかわからなかったけれど、辛うじて秀一が自分に口付けようとしたことだけはわかった。
「……秀一君?」
あまりに突拍子もない展開に、まともな性生活を送っているとは決して言えない二科も唖然としてしまった。
隣の村野もどうしようかという雰囲気を漂わせている。彼も彼なりに秀一を心配しているのだろう。
「おい、滝崎?」
二科の両肩に手を置いたまま顔を上げない秀一に村野が呼び掛けると、ようやく顔を上げた。
「元に、戻して」
切実な色をたたえた瞳に見つめられて、あっと思った瞬間にまた唇を奪われる。今度は歯もぶつからなかった。
「ちょっ……」
待てと言うことも許してもらえず、顔をそらそうとする二科の顔を秀一は力で押し戻す。そして、舌が口内に侵入して来て二科の息すらも奪い取っていく。
今までの秀一からは想像もできないような強引さだった。
「……っ……あ……」
肩に回された拘束する腕の力も強くて、快楽に弱い二科はろくな抵抗もできずに引きずられた。村野を含め周りにいる人間がまずいという顔をしていたけれど、二科にはどうすることもできなかった。
もっともこの場にいる人間はさすが村野のつるむ仲間で、男同士がキスする程度の細かいことを気にするような奴らではないので二科としてもそこら辺は助かったのだけれど。
「ん……、はあ……」
ようやく開放された二科の唇からは、どうしようもない艶めかしい吐息が零れる。様子を窺っていた周りの人間が、頬をわずかに染めた二科の表情に見入るのがわかった。
視線を感じるものの、だからといって快感に酔いしれそうになっている自分をどうしようもないので、二科はそれを無視した。
けれど村野だけが、二科のいやらしさをものともせずに忠告を寄せてきた。
「いや、ニカさん、さすがにやばいでしょう」
頭をがしがしと掻きながら村野が呆れ顔で忠告してきて、二科から秀一をはがそうとする。けれど秀一はそれを嫌がってまるでしがみつくように二科に縋った。
「嫌だ…! もう一度忘れて、今度こそ振り切るんだっ」
その言葉で二科にはわかってしまった。
例の「彼」との間に「何か」があって、それが落ち着いていた秀一を再び乱したのだと。おそらく村野にもそれがわかったのだろう。顔をしかめただけで、秀一の行動についての文句を言うことはなかった。
「滝崎」
その代わりに落ち着けと言って秀一の髪をぐしゃっと触った村野に、けれど秀一は子供みたいに頭を振った。
「しょうがねえなあ」
ったく、と息を吐いて秀一を無理に連れていこうとする村野を、唇を拭った二科が止めた。
「いや、いいよ、僕が面倒見る」
「いいんですか」
「僕に会いに来たんだ。それに主賓がいなくなってどうする。今日はお前の誕生日を祝う会だろうが」
「それは、そうですけど」
「だったら」
それでもまだ何か言いたそうな村野を制して、二科は秀一の背に手を回した。こんな秀一を二科は放っておけなかった。
そして、秀一は二科に救いを求めているようなのだから、村野をそれに巻き込むわけにはいかなかった。
「悪いな、途中退席で」
「うまくごまかしておきますよ」
「頼む」
一瞬、さっきまで洒落た駆け引きをしていた相手のことを考えたけれど、二科はどうでもいい、と村野に事後処理を頼むことを辞めた。
所詮、彼は代わりにしかならない相手なのだ。そんなに気を使う必要もないだろう。
そんな相手よりも、秀一の方が二科にとっては余程大切な存在だった。
二科は離れようとしない秀一に落ち着ける場所に行こうと告げて、店を後にした。
秀一は二科が拒まないことに安心したのか、ゆっくりとしがみついていた体を離した。
そんな突然の出来事にざわつく背後のその中に、村野に、去っていったのが誰だと告げる声があることに気付く余裕もなかった。

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