君がいる 第19話
俺の顔を見て信じられないと言う桜に自分も信じられないと言うと、桜はもっと驚いたようだった。
「珍しいな。お前らが喧嘩してるのなんて、俺は初めて見る」
「こんな風に喧嘩するのなんて、初めだよ。今まで喧嘩したことなんて一度もない」
「そうだったのか」
頷くと桜はまた頭を撫でてくれる。
「俺、相原以外のやつとも喧嘩なんてしたことないから、どうしたらいいかわからなくて」
「それで俺のとこに来たのか?」
「頼れるの、ここのうちの人しかいなくて。智也は今が高校受験の本番前で神経使う時期だから、不安にさせたくないし」
「うん」
桜の優しい手の動きが心地よくて目を閉じると、何もかもどうでもいいような気持ちになってしまう。けれどそれを押さえ込めるようにして、言葉を続ける。
「相原に、『俺が何考えてるかなんて本当は興味ないんだろ』って言われたよ。それから、『随分安い親友だ』とも」
「そうか」
「正直に言うと、ちょっとどきっとしたんだ。相原の考えていることに興味がないわけじゃないけど、そこまで深く相原のことが知りたいわけじゃない。人に構われたくない、人の内面のことに深く関わりたくないと思っている自分がいることを、本当は知ってる。だから、相原にそう言われたときにどきっとしたんだ」
そこまで言って、俺は桜の肩から頭を離した。
「でも、なんで……」
真正面から桜を見ることはできずに俯いて布団をきつく握りしめると、隣からは意外な返事が返ってきた。
「俺は相原の言いたいことはわかるなぁ」
はっと顔を上げると、桜は穏やかな顔をしていた。
「玲はさ、小さい頃に菊乃伯母さんを亡くしてる。しばらくはうちの母さんが玲と智の面倒見たりしてたけど、それだっていつもできるわけじゃなくて、家に帰ったら母親はいないわけでさ。玲はさ、小学生の高学年になったあたりからそのことよくわかってたんじゃない?」
「……わかってたよ。だから俺がしっかりしなきゃって、思うようになった。智也の母親がわりになろうって」
再び俯いた俺は目を閉じてその時のことを思い出す。
「ろくに同級生と遊ぶこともしなかったし、家族の話で盛り上がれないから、話もしにくかった。むしろ家のことを聞かれるのが嫌で、いっそ付き合いたくないと思ったこともあったよ」
「だからなのかなぁ。玲はすごくしっかり者になったけど、人とあんまり付き合わなくなったような気がしてた」
顔を上げて「……そうかな」と聞けば、桜は笑って答える。
「そうだよ。だからうちの高校に入ってきて、相原とか他の友達とも仲良くやってるとこを見て安心したよ」
「そうだったんだ……」
苦笑すると桜はそのまま続ける。
「相原が気にしてるのはさ、そういうところなんじゃないか?」
「そういうとこ?」
「玲がまだ人と深く付き合おうとしてないところ。友人が多ければいいとも限らないけど、玲は数少ない友人にも本音を話さないし、本音を聞きたくないと思ってるだろう。……玲が本当の意味で気を許してるのは、自分の家族とうちの家族だけだ。そのくらいは側で見てればわかるよ」
笑う桜に、正直、敵わないなと思った。
「だからなのかな、安い友人っていうのは。いつでも切れるくらいのつながりしかないってことかな。……桜ちゃんはいろんなこと俺よりよくわかってるね」
苦笑を漏らすと桜は肩に手を回してきて、俺を抱き寄せた。
「玲は俺にとって大事な人間だよ。だから、やっぱりきちんと友人と付き合っていってほしいよ。無理に本音を話せっていうわけじゃないけどな」
「なに、それ?」
俺が笑うと桜は抱きしめる手に力を入れた。自然と俺の頭が桜の肩口に埋まる。
「一番近くにいた相原と喧嘩して辛いのはわかるけど、これを機に少し踏み込んでみたらどうだ? 人生で一人くらいはそういう相手がいてもいいと思うぞ。相原は良くも悪くも初めて長く付き合ってる友人だろう」
「それは、まあ、……うん」
「本当は相原みたいに小憎らしいやつに玲を任せたくはないんだけどなぁ」
幾分本気を感じさせる桜に面白がりながら頷いて、そっと桜から離れた。不満そうな桜に笑いながら、子供に帰って桜の膝の上に頭を乗せた。桜は一瞬驚いた顔をしたけれどすぐに髪を撫でてくれる。
馬鹿な子供だと思いながらもひどく安心する自分がいる。ここは絶対に自分を拒まない。そんな安心感がたまらなく欲しかった。
「喧嘩なんてそんなに気にしなくて大丈夫だ」
「……桜ちゃんなんていつも三枝さんと喧嘩してるもんね」
「あれは、まぁ、あいつが悪いんだけどな」
「はは、そうなの?」
「そうだよ。……早く仲直りできるといいな」
さりげなく落とされた声に癒されるような気がして、俺は「うん」とだけ返して目を閉じた。
桜に甘えさせてもらったせいか、あれからすぐに俺の調子は戻った。相原とは一言も口をきいていないが、それも気にならないくらいには吹っ切れた。
とは言っても、すでに相原との膠着状態は二週間に渡って続いていた。さすがに奥住には「お前らまたなんかあったのか」と聞かれたから、はっきりと「相原と喧嘩した」と言ってみた。
「……ついに初戦争勃発か。まぁお前、がんばれよ。俺は被害にあわないところに避難するから、間違っても俺を巻き込まないでくれ」
奥住は複雑そうな顔を見せてそう言った後は何も言わなくなった。
実のところ、三日後に智也の入試が迫っているから相原に構っている暇などなかった、ということもある。それに加えて自分の就職についても少しずつ考え始めたことも、忙しさに拍車をかけていた。
「失礼しましたー」
小さく声をかけて就職情報室から出る。
ふと横を見ると隣の図書室から以前知り合った6組の佐々木那都が出てきた。けれど俺には気付かなかったようで、佐々木は背を向けて二年棟の方へ歩き出す。
気付かなかったのならそのまま見送ろうかと思ったけれど、その手に握られていた本が気になって俺は足早に追いかけながら声をかけた。
「佐々木さん」
「梶君」
振り返った佐々木は以前同様にこやかに笑った。
「そこで見かけたから。ちょっと気になったんだけど……。答えたくないような質問だったらごめんね」
「どうしたの?」
不思議そうな顔の佐々木は小首を傾げる。
「佐々木さん就職するの?」
聞いた瞬間、佐々木の顔が少し強張った。けれどすぐに打ち解けたようにその顔に苦笑いが浮かぶ。
「わかっちゃった?」
「実を言うと俺もその本読んだから、なんとなくそうかなぁって」
佐々木が左手に持っている本を指すと、彼女は驚いたような顔をした。まさか俺が読んでいたとは思わなかったのだろう。
「もしかして梶君も?」
「そうだよ。今も就職情報室から出てきたとこ。うちさ、あんまりみんな知らないんだけど父子家庭なんだ。まあ、いまどき珍しくもないけど」
「そうなんだ……」
佐々木は俺から視線を逸らして、俯きがちに正面を向いた。しばらく押し黙ってから静かに言葉を紡ぎ出す。
「冬休み……去年の年の暮れにね、うちの父が亡くなったの。仕事中に倒れて、そのまま。保険に入ってたおかげでお金のことは大丈夫だったんだけど、でもそれもお葬式とか家のローンとか、いろんなことに散っちゃってほとんど無くなっちゃった。うち下に弟がいるし、奨学金をもらえたとしても厳しいから大学は諦めざるをえなくて。本当ならもう働き始めてないといけないんだろうけど、親がせめて高校は出とけって言うし。幸いここは都立だったから」
顔を上げて、それでも辛うじて微笑む彼女に俺も少しだけ笑った。
「うちはさ、母親がまだ若い頃に亡くなったから保険にも入ってなくて、金が結構大変だったみたい。それに家を買ってまもなくだったから、今もローンの支払い残っててさ。うちにも弟がいるから、それを考えても俺は働かなきゃって」
立ち止まっていた俺は廊下の窓側の壁に寄り掛かった。佐々木もそれにつられるように窓際に寄ってきて中庭を見下ろす。
三年棟の四階に位置する就職情報室の前の廊下は、三年生が自由登校になるこの時期には閑散としている。本格的に私立大学の入試が始まった今は図書室も寂しいくらい人がいない。
昼休みという時間にも関わらずこの場所だけが、空間が違うかのように静かだった。
「梶君も大変だね」
「佐々木さんに比べれば、そんなでもないかも。高校卒業したら働くっていうのはもうずっと、中三くらいのときから自分の中では決めてたし」
「梶君て偉いね。私なんてこんなことになるまで、そんなこと考えたこともなかった。ただ今までと同じ平和な日が毎日ずっと続くんだと勝手に信じてた」
「別に、偉くなんてないよ。ただ、佐々木さんみたいにこの時期に突然じゃなかっただけで」
身体を反転させて窓から同じように中庭を見ると、寒いのに元気にシャツ姿のままボールを追い掛けている生徒の姿が目に入った。
「多分物心ついた頃から母親がいなかったからだと思うよ。佐々木さんの方が……」
「大変だよ」と言おうとして、その言葉を飲み込んだ。それは言ってはいけないような気がしたのだ。
そのまま黙っていると不意に俺の方を見上げた佐々木が話題を変えた。
「梶君はさ、文系理系どっちにいくの?」
「悩んでるんだよね。就職組は文系に行く人が多い言うけど、これからのこと考えると理系かなとか色々考えて」
「やっぱり? 先生に相談した方がいいのかなぁ」
佐々木の方を見ると目が合って、二人で笑った。
「何はともあれ、お互い就職組ってことでよろしくな」
「こちらこそ」
明るい雰囲気になったところで二人で二年棟に帰ろうと歩き始めた。
「あれ、相原?」
すぐに向かいから誰かがずんずんと近付いてくるのに気付いた。誰かと思えば、相原が随分と荒々しく仕草で歩いている。
こんなところで何をしているのだろう。
その疑問を口にする暇は与えられなかった。すぐ側にやってきた相原は何も言わずに俺の腕をむんずと掴んで、そのまま引きずるようにして俺を連行してしまったからだ。
拘束する手の力は強く、振りほどくことができない。
「おい、相原?!」
「えっちょっと相原君?!」
俺と佐々木の声など気にしなかったようで、相原の歩みは止まることはなかった。