君がいる 第12話
十二月に入るといよいよ冬本番という感じに空気が冷たくなってきた。
暖房がきいて温かかった職員室から出ると廊下の寒さに身が縮む。なんとなく背を丸めながら、職員室の向かいの窓から外を眺める。ちょうどコの字型の真ん中に位置するこの場所からは校庭が見える。
日没が早くなる冬、放課後の時間には外はもう薄暗くなり始めていて、校庭の明かりがついている。けれど遠くからでは人が小さく見えるだけで、何をやっているかはわからない。
大きく息を吐くと窓が白く曇って、少し笑う。ここのところ沈んでいた気分が、今日はよかった。さっきの職員室のやりとりを思い出すと、思わずにやりとしてしまう。
各務家の食事での会話に自信を得た俺は、空いた時間を見繕って職員室に足を運んだ。
「失礼しまーす」
ドアを後ろ手に閉めて田中の席の方を向くと、彼はいつも通りそこにいた。一目散に田中のところヘ行って声をかけると、机に向かっていた田中が顔を上げた。
「おお、梶。どうした?」
「これ出しに。ホームルームのときには渡しづらかったので」
一度返された進路調査表をぴらっと出すと田中はなんとも言えない顔をする。
「それ、どうした?」
受け取りながら聞いてくる彼に、苦笑するしかない。
「先生には悪いけど、やっぱこれは変えられないよ」
渡された紙を見て田中の表情も苦笑いになった。
「そうか? 俺としては勿体ないと思うんだよなぁ。梶は成績も良いし、結構なレベルの大学に行けると思うんだが。やっぱり考え直す気はないか?」
「ないですね。ずっと前から考えていたことなので、今更譲りたくないというか。……やっぱり、父親にこれ以上負担かけなくないんです」
「……そうか……。残念だなぁ。でもまあ、本人がそれをやりたいなら応援してやるのも俺の役割だな」
笑いながら息を大きく吐いたその顔は笑っている。
田中は良い先生だと思う。
うちの、いわゆる「家庭の事情」をよく理解していてくれる。それなのに特別扱いはしないところが、俺の支えの一つだ。各務家の人々を含め理解のある人に囲まれ、すごく恵まれている気がする。
「そういえば、もしかして梶の弟は今年中三か?」
「あ、はい、そうです」
「なんだ、じゃあ大変だなぁ」
田中はボールペンを手で弄びながらまた苦笑いした。
「本当に。すごく気を遣います。おかげで疲れて疲れて」
「はは、梶が倒れないようにしろよ? で弟はどこに行くんだ?」
「まだ決まってませんよ。でも美原に来たいって言ってますよ」
「入れるといいな」
「まぁ、大丈夫じゃないですかねえ」
そう言うと田中は「まるで母親だな」と、どこかで聞いたようなことを言った。
そこでちょうど話が途切れたから帰ろうとしたところで、もう一度声をかけられる。
「それはそうと、また少し目が悪くなったか? この間目を細めて黒板見てただろう」
「……そうですか? 気がつかなかった。大教室になると見づらいだけで、普通の授業はちゃんと見えてるんですけど……」
「ならいいんだがなぁ」
田中がそう言ったところで俺の背後から別の声が割り込んできた。
「こいつは問題ないですよ」
「ああ、相原、どうした?」
「学級日誌出しに来ました」
そうして田中に日誌を渡しながら続ける。
「成績良いんだから多少目が見えないくらいの方が無害でいいですよ」
「お、相原は梶をライバル視してるのか? でも見えないのは問題あると思うが。まあもし見えなくて辛いんだったら、眼鏡したらどうだ?」
「……考えておきます」
相原から受け取った日誌をチェックしている田中に声をかけて、俺は今度こそ職員室を出たのだった。
ついさっきの相原のひねくれたもの言いを思い出して笑っていると、後頭部を軽く叩かれた。振り向かなくても窓に移った姿で相原とわかる。
「何笑ってんだ」
「いや、別に?」
そらとぼけると相原は俺の横に移動して窓に寄りかかるようにした。
「それよりもお前、いいかげん眼鏡買えば? バイトでいくらか稼いだんだろ?」
「ああ、七万ちょっと稼いだ」
「は?」
さすがの相原もその金額に驚いた顔をした。
「なら眼鏡買えば」
「でもその金は全部貯金した。智也のことでこれから何かあるかもしれないし。大体眼鏡は高いし」
「お前ますます主婦っぽくなったな」
どこか呆れた感じの相原に「ほっとけ」と言って俺は相原を小突いた。
期末テストの最終日、後はテスト解説さえ終わればあと一週間で冬休みに入るという日。
相原に呼ばれた俺は生徒会室へとやってきた。
右手で二回ほどノックするが返事はなかった。そんなのはいつものことだから、とドアに手をかける。「相原?」と声をかけながらドアを開けた。
視界が開けると、ソファに座る相原の膝の上に乗るようにした女の子がばっと身を離した。その顔が俺の方を見てさっと赤くなる。
しまった、まずいところに居合わせた。
慌ててドアを閉めて戻ろうとすると、その女の子が俺の横をすり抜けるようにして部屋を出ていった。
取り残された俺は逃げていく後ろ姿を半ば唖然と眺めた後、仕方なくドアを閉めた。
「取り込んでたみたいなのに、……悪いな」
なんとなくばつの悪い思いをしながら、辛うじて言うと「いや。あれで最後だから」と意味のわからない言葉が返された。
あんな場面を俺に見せたにもかかわらず、相原は悠然と腰掛けたままだ。
「まぁ座れよ」
そう言って隣のソファに座るようすすめる相原に従って、気まずいながら腰を下ろす。そして相原の顔を見て、思わず眉をひそめてしまう。
「お前、口に跡付いてるぞ」
「本当だ」
口を右手の甲で拭った相原はなんでもないことのように言った。
俺の目にも鮮やかにピンクというか赤っぽい色が見える。さっきの女の子がしていた口紅かなんかの跡なんだろう。そんなものがくっきりと付くほどのキスをしていたのかと思うと、何をやっているんだととめ息がもれる。
たらしにもほどがある。女の子が泣くことにならなきゃいいけど。
「いくら生徒会長でもさすがにここでそういうことするのは、ちょっとやばいんじゃねー? 女の子はべらせてるだけならまだしも、さ」
「あれは向こうが押しかけてきたんだ。俺が連れ込んだわけじゃないから大丈夫だ」
「……そんな問題か? まぁいいけどさ」
「先生には信用があるからいいんだよ」
そう言って相原はテーブルに置いている眼鏡を手に取った。それから立ち上がって俺を見る。
「なんだ?」
何も言わずに相原は一歩近づいた。
「お前もするか?」
「わっ」
俺の座っているソファの背もたれの部分に右手をかけて、覗き込むようにしてくる。わずか十センチメートルの距離に相原の顔がきたことに驚いて、思わず頭を後ろに引いてしまった。
それに眼鏡をかけていない相原がふっと笑った瞬間、背後のドアが何の予告も無しに開いた。
「お、相原。何してるんだ?」
三枝の質問に相原が身を起こしたおかげで、俺も後ろを振り返ることが出来た。三枝の横には桜と椿もいる。
「いえ、特に何も。三枝さんたちは?」
「俺達は、お前たちがここにいるだろうと思って。教室行ったらいなかったから」
「俺達を? どうかしたんですか?」
「いや、ちょっとイベントの頼みがあって」
そう言って三枝はちら、と桜を見た。その顔は明らかに不機嫌そうで恐い。
「俺は絶対認めないからな」
その言葉に、少し後ろにいる椿が付け加えた。
「桜がずっとこんな感じなんだよー」
俺と相原――たぶん相原もだろう――は何が起きているのかよくわからない。それを察したのか三枝が説明を始めた。
「今年のクリスマスは二人で過ごしたいって椿が言い始めたのがことの発端なんだけど」
正直な話、それを聞いてしまえば後は言われなくてもわかってしまう。
「つまり、それが桜ちゃんにばれた、と」
「そういうこと。で、わかってはいたけど」
「俺は許さないからな」
「と言い張ってきかない。だからって俺と椿と各務の三人でクリスマスを過ごすのも微妙過ぎるだろ? じゃあいっそパーティでもするかって思ったわけだ。それでお前らを誘いにきた」
そこまで一気に説明した三枝は相原の向かいにあるソファに腰掛けた。相原は眼鏡をかけて三枝の顔を見てため息をついた。
「なんてタイミングですか。三枝さんたちが受験シーズンに入る前に何か企画しようと思って、梶を呼び出したところですよ」
呆気に取られたのは俺だ。そんな話はもちろん、そのために呼び付けられたなんて知らなかった。
「なんだ。じゃあちょうどいいじゃないか。じゃあクリスマスパーティのメンツは決まりだな」
ただ一人驚いている俺など無視して、三枝の一言でクリスマスパーティはあっさり決まってしまったのだった。