清想空

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open05.04.12
永遠の訪れた日
自分の幼い頃の家庭環境はおよそ一般的と言えるものではなく、そのことを自分でもよく理解しているから、生き方には気をつけてきたと思っている。
奥田守<おくだまもる>は荷物を整理する手を止めた。もう何年も開けていなかった箱から取り出した一通の手紙に目が留まったからだ。
差出人は滝崎多佳子<たきざきたかこ>。消印は七年前だ。
ああ、あの時のだ。
守はすぐさま手紙の内容を思い出すことができた。
この手紙は守が出した手紙への返信で、それがきっかけで多佳子との奇妙な縁ができたのだった。
もう七年か。早いな。
守は個人宅にしては少し広い庭に目をやった。
 
 
 
守には二人の父親がいる。
生まれてから十歳まで暮らしたのが戸籍上の父親で、その後母の再婚によって一緒に暮らすことになったのが本当の意味での父親だ。もっと簡単に言えば、最初の父親とは血の繋がりはないが、二番目の父親とはある。
なんでそんなことになったのかというと話は三十五年前に遡るわけだが、かい摘まんで説明すれば、当時、守の母親が会社の上司と不倫関係にあったことが事の発端だった。関係自体はその二、三年前から続いていたのだが、その年、母が守を身篭った。
母は相手に告げるかどうか悩んだあげく、結局は相手には秘密にすることを決めた。そのときに相談にのっていたのが同じく会社の上司だった川西敬吾<かわにしけいご>であり、彼と母の間にどんなやり取りがあったのかは未だもって謎のままだが、彼らは偽装とも言える結婚をした。
そうして守は川西の子供として育てられた。
ところが守が十歳のとき、それまでうまくいっていた――子供の目にはそう見えた――と思っていた両親は離婚を決めた。このときもどういういきさつでそうなったのか、守は知らない。母も川西もそれについては語ろうとしなかった。
ただ、離婚するに当たって、二人は守に本当のことを打ち明けた。
事実を伝えられた守はキョトンとした顔をしたのだろう。母はしゃがみ込んで目線を合わせて話を続けた。母の言葉は川西の言うことを肯定していて、川西もすまなそうな顔をして頷いた。
正直に言えば、それがどういうことなのかよくわからなかった。
だからこそ、守は父親が二人いることを受け入れられたのかもしれない。
川西は別れるときに、母の再婚相手が実の父親だから仲良くしてやれと言って、それから守の頭を撫でながら言ったのだ。
『でも俺もお前の父さんだ。いつでも遊びに来ていいし、頼っていいからな。忘れるなよ』
その手の温もりに、守は素直に頷いた。川西との別れは悲しかったけれど、彼は言葉通り、守が望めばいつでも会ってくれたし、遊んでくれた。
だから守は自分には二人の父親がいると思ったし、今でもそう思っている。
もっとも成長するに従って、不倫の結果として生を受けた自分は世間的にはどこか後ろ暗い存在であると自覚した。だからこそ自分はそういうことには手を染めないようにしてきたし、父親が二人いることを誰かに話そうと思ったこともない。
母が離婚直後に再婚したことも周りで何のかのと言われる要素の一つだったから、そういう意味では守は極力問題を起こさないように気をつけた。
けれど二人の父親がいて嫌だと思ったことはない。
それが自分でも不思議だと思う。
 
 
 
新緑の季節の、目に眩しい光が反射して、庭の芝生が青々と目に痛い。そこにロッキングチェアの残像が見えて、守はそっと視線を外した。
手にしたままの手紙を近くのテーブルに置いて、立ち上がる。
この家に残るのも、遂に荷物と守だけになってしまった。
そこここに残る思い出とその残像が優しく守を包むけれど、それが自分にとってよいことなのか、それとも悪いことなのか。判別は難しかった。
この家の所有者は守と、川西敬吾と、来生暢<きすぎとおる>の三人だった。けれど守以外の二人はもう帰らぬ人になってしまい、実質上守しか使わない。
時の流れは不思議な感慨をもたらす。来生と川西と過ごした時間は、長いようで短い。
表向きにはお互い独身の親友が退職後の人生を楽しむ為の同居ということになっていたが、守の目から見た二人は、親友とは違った。
おそらく恋人とか、そう言われる類の関係にあるのだろうと気付いたのは二十五歳くらいのときだっただろうか。それまでも川西と来生が二人で過ごしているのを目にすることがあったけれど、まだ子供だった守にはわからなかった。
ただ、二人の間にある空気がとても優しくて、居心地のよいものであることは知っていて、だから守はよく川西の元に顔を出した。休みの日はたいてい、来生が来ているのを知っていたからだ。
守は川西の子供といっても四十も年の違う子供だったが、それも問題にはならず、いつも楽しく三人で過ごしていた。川西も来生も温かく守を受け入れてくれた。
今思えば三人にはどこか共通するものがあったような気がする。
だから川西と来生が家を買うというときに、守もそれに加えてもらった。三人の家。家自体は多少小さくてもいいからそこそこの広さの庭がほしいとか、庭にロッキングチェアを置いて午後のお茶を楽しむんだとか、そんなことを話しながら笑いあった。
家の購入資金は来生と川西の貯蓄と、わずかにたまっていた守の貯金。それでも結構な額があって、銀行から借り入れなくて済んだ。そして郊外のちょっと田舎っぽい雰囲気の残る土地に小さな家を構えた。
今考えると二人が守のために残した遺産のようで、喜んでいいのか悲しんでいいのか、よくわからない。
家が建って、実際に川西と来生が住むようになったのが十年前。守は社会人になって五年目で、まだ実家に住んでいた。
両親の手前、川西と同居すると言いにくかったというのも、本当は二人の元に行かなかった理由の一つかもしれない。どちらの父親も優劣なく好きだったし、どちらもよくしてくれた。だからこそ、血の繋がりはもとより戸籍上の繋がりもなくなってしまった川西の元に行くとは言いづらかった。
二人が住む優しい空間に守がちょくちょく顔を出す。そんな穏やかに流れる時間がいつまでも続けばいい。その願いが叶うはずがないことなど、わかっていた。それでもまさか、それがわずか二年ほどで壊れてしまうとは考えもしなかった。
二人が一つの家で暮らし始めてから二年経ち、旅行したり、出掛けたりという行動が一段落した頃。来生が体調を崩しがちになった。風邪をひきやすくなり、体の線も少し細くなっていった。
明らかに変調を来していた。
その後も体調の良いときと悪いときを繰り返し、一年後、とうとう目を開けることはなくなった。
川西も守も、弱っていく来生を見守ることしかできなかった。
治療をしようにも来生は大丈夫だからと言い、二人の心配そうな顔に向かって微笑んだ。以前と変わらない柔らかな笑みに川西も何も言えなくなり、二人は来生との時間を大切にしようと決めたのだった。
来生は自分の最期がそう遠くないことをわかっていたのだろう。だから、川西とともに過ごす時間を少しでも長くしようと、そう考えたのかもしれない。
そうして来生が亡くなった後、一人で暮らすには広い家に川西は残された。
温かな思い出の残る家で、一人、来生の残像の優しさに包まれながら暮らしていく。川西にしてみれば寂しくも幸せかもしれなかったが、守は隣に来生のいなくなった川西を一人にしておけなかった。
けれどもしかしたら、好きだった川西と来生の空気がなくなった、そのことが寂しくてならなかった自分のエゴかもしれなかった。少しでも、それがあったということを確認できる証拠に触れたかったのかもしれない。
守はそれを機に三人の家に住み始めた。両親は特に何も言わなかった。
川西は来生を失ってから、少しずつ、少しずつ緩やかに弱っていった。七十を過ぎた頃に癌を患い、それは大事に至ることなく完治したが、それをきっかけに川西はますます弱った。
そして、今年の春。
天気の良い昼下がり、久しぶりにロッキングチェアを出して午後のお茶をしようと川西が言い出した。温かな日差しとそれを受ける芝生が綺麗で、触発されたのかもしれない。
川西も守もいつになく明るい気分だった。川西の体調も良かった。
先に庭にロッキングチェアを出して、川西のリクエストの紅茶を淹れる。紅茶の入ったポットと二人分のカップ、それからちょっとした菓子をトレイに乗せて庭に向かった。
川西は既にロッキングチェアに腰かけて揺られていた。
『敬吾さん、紅茶入りましたよ』
脇のテーブルにトレイを置いたが、川西からの返答がない。心地の良い気温にうたた寝をしているのだろうか。
『敬吾さん』
もう一度近くで呼びかけた。けれど今度も反応がなかった。いつもなら目を醒ますのに。
おかしいと思ってもう一度だけ呼ぶ。
『敬吾さん? …お父さん?』
顔をのぞき込む。穏やかな寝顔にホッとしたのもつかの間、規則正しく上下しているはずの胸は動いていなかった。
眠ったまま、川西は亡くなった。
穏やかな最後だった。心地の良い春の日に相応しい亡くなり方だったと思う。七十四歳だった。
来生にしろ、川西にしろ、少しばかり逝くのが早過ぎると思う。もう少しゆっくりしてもいいじゃないかと子供地味た思いが胸を占めるが、でも、来生のいない世界に川西をあまり長く留めるのも可哀相なので、これでよかったのかもしれない。
そうしてこの家に残されたのは守一人。
今日はゴールデンウィークを利用して家の荷物の整理をしているところだった。そして、先程の滝崎多佳子からの手紙を見つけた。
七年前、来生の死を知らせた守に、来生の娘――正確には姪で、義理の娘だと聞いている――の多佳子は頭を下げて感謝の意を示した。別に感謝されるほどのことをしたとは思っていなかったが、多佳子は自分が傍にいられなかったことを後悔していて、自分の代わりに来生の傍にいた川西や守に礼を言いたかったのだろう。
多佳子との縁は来生の葬式――唯一の血縁である多佳子が日本に帰ってきていない可能性があったので、差し出がましいと思いつつ葬式の手筈は川西が取り仕切った――で切れるかと思ったが、その後も年賀状や暑中見舞等の四季折々の便りでのやり取りが細々と続いた。
その多佳子は川西の葬儀を手伝ってくれた。
『穏やかな顔ね』
川西の顔をのぞき込んだ多佳子は安心したように漏らした。
そしてすべてが終わった後に
『向こうで二人が幸せになったらいいわね』
と呟いた。守もそれに頷いて、空を見上げた。綺麗な青空だった。
多佳子は守よりも二十も年上で、しかも実の母と十も違わないから親友の子供同士というよりは、二人は親子という感覚の方が強かった。けれど川西と来生の安寧を願う気持ちは同じに違いなかった。
守は既に冷めてしまったお茶を飲んだ。初夏に近い日差しのせいで温まった体には心地良かった。
多佳子からの手紙は取っておくことにしよう。
多佳子は川西と来生の存在を知っている、守の唯一の知人だった。彼女と守を繋ぐのはわずかな数の手紙だけ。川西と来生、二人の存在が確かにここにあったと証明できるのはいずれ守とこの手紙だけになる。それを大事に取っておくべきだと、そう思った。
「さて、と」
守は湯飲みを置いて立ち上がった。
これからこの家をどうしようか。勿論、金を出して建てたからには使うつもりだけれど、いくらなんでも一人で住むには広い。
「いい人見つけて結婚でもするかなあ」
来生も、守達と別れた後の川西も、結婚はしなかった。二人の関係を考えればそれも当たり前で、それをおかしいとは思わなかったけれど。
どこか複雑な人生を歩んだ二人に代わって幸せな家庭を築きたい。といっても守自身も普通とは違う家庭環境だったためか、憧れのようなものを抱きながら、反対に一歩引いてしまう癖があった。それでも、あの二人のような穏やかな空気を作り出せる相手を、自分も見つけたかった。
「ま、それももう少し後のことか」
一人ごちて、大きく伸びをする。今はまだ現実的にそんなことを考える余裕はない。とりあえずは荷物の整理をしなくては。
「よーし、もう一頑張りだ」
心の整理も一緒につけようと声を出して、もう一度だけ庭に目をやった。
初夏の日差しと、そこに宿る思い出が眩しかった。