それは一月のある日のこと。
昼時の人の増えてガヤガヤとうるさい学食生協で桜は一人うどんを食べていた。
「桜さん」
目の前の席に荷物が置かれ、食事を乗せたトレーが視界に入ってきた。
顔を上げると案の定、そこには杉浦がいた。
「遅くなりました」
そう言って杉浦は当然のように桜の正面の席に腰を落ち着ける。
「別に待ってない。というか、特に約束してるわけでもないだろ」
「そんなこと言わないでください」
素っ気ない、ついでに可愛いげもない桜の言葉に、杉浦は笑う。
「約束がなくてもいいでしょう。俺が桜さんと一緒に食べたいんだから」
「……勝手にしろ」
「そうさせてもらいます」
いただきます、と言って杉浦が食事に手を付け始めた。
「桜さん」
「なんだ」
「なんかいつもより冷たくないですか?」
「気のせいだろ」
「そうですか? ……もしかして、この間のこと、まだ怒ってます?」
「この間のことって?」
「初詣の時のこと」
「……なんでそのことで俺が怒るんだよ」
「だって、あの人たちに声かけられてるの見て、桜さん怒ってましたよね」
「なんで俺が。怒ってないよ」
「本当に? あんなに機嫌悪そうにしてたのに?」
「……うるさいな。初詣にお前と相原が来たのが悪い。俺は玲と二人で行くもんだと思ってたんだ」
「そんなに梶と二人がよかったんですか」
「お前と相原がいるよりはな」
「相変わらず嫌われてますね」
いつも以上に冷たい桜の態度に、それでも杉浦は怒ったりはしない。軽く息を吐いて話題を変えるように視線を振った。
「あ、三枝さんと椿さん」
ぴくりと桜が眉毛を跳ね上げるのを杉浦は見逃さなかった。
「ほら、あそこ」
「ああ?」
「桜さん、言葉悪すぎ」
杉浦が笑いながら向こうに手を振っているのにつられて桜が同じ方向に視線をやると、確かに三枝と椿が同じ席で食事していた。向こうも手を振っているけれど、桜は一瞥しただけですぐに視線をうどんに戻した。
「あれ、もういいんですか? もう少し反応してあげればいいのに」
「あいつらに愛想振り撒く必要なんてない。椿はともかく三枝になんて考えただけで虫酸が走る」
「またそんなこと言って。どうします、向こうに移動しますか?」
「移動しない」
「どうしてですか? 確かに移動は面倒臭いですけど」
「行ったところでからかわれるのがオチだ。三枝あたりはあからさまにニヤニヤしながら何か言ってくるだろ。目に浮かぶ」
「からかわれるのが嫌ですか?」
「……お前は好きなのか?」
「確かにからかわれること自体はあまり好きではないですが、桜さんとのことなら構いませんよ」
「……お前何言ってんだ」
一体どういう神経をしているのだと睨んだものの杉浦は泰然としている。本当に肝が据わっている男だ。
「だって、からかわれたら、幸せですから」
「はあ? 全く意味がわからない」
「要するに、からかうだけの要素があるってことですよね。俺と桜さんの間に」
「んなっ……何言ってんだっ。馬っ鹿じゃないの、お前」
「そうですか?」
「馬鹿だっ、馬鹿っ」
「でも俺はこうして昼に一緒にいられて嬉しいですよ」
「う……うるさいっ。もう黙って食え!」
にっこりと笑う杉浦に桜は不覚にもうろたえてしまって、慌ててうどんを食べることに戻った。
その様子に満足した様子を見せた杉浦はもう一度視線を三枝たちの方にやった。
「あ、相原だ。三枝さんたちのところにいますよ」
「もういい。相原の話を俺に振るな。どうでもいいから。とにかく食事に集中しろ」
「はい。でも、……相原と言えば」
「なんだよ」
「初詣のことなんですけど」
「お前も大概しつこいぞ」
「いえ、桜さんが怒ってたって話ではなくて」
「じゃあ何だ」
「あの時、……俺と相原が捕まってたとき、桜さん、梶と何してたんですか」
「あ?」
「いや、だから、俺たちのこと待ってるとき、梶と何かやってましたよね?」
「えーと? いや、普通に話してたけど。それがどうかしたのか」
「嘘」
「嘘って何だよ。そんなことで嘘ついても面白くないだろう」
「でもあのとき、桜さん、遠目で見てもわかるくらい真っ赤になってましたよね?」
言われたことを考えようとして、神社であったことをはっきりと思い出した。それと同時に瞬間的に顔が真っ赤になってしまう。あのときの玲一の指の感触まで思い出して首を咄嗟に手で押さえた。
桜の反応を見た杉浦の顔が少し強張った。硬い声で桜を問い詰める。
「何があったんですか」
「な、な、な、何にもないっ」
「何が、あったんですか」
「だから何にもないって言ってるだろうっ」
「じゃあその手は何ですか」
言われて桜は急いで手を首から離す。
「な、何でもないっ。ちょっと寒かっただけだっ」
「梶に触られた? それとも息吹き掛けられた? それとも」
「だからっ、寒かっただけだって! もういいだろっ。ご馳走様でしたっ」
そのまま逃げようとした桜を杉浦は慌てて食器のトレーを押さえて制した。
「すみませんでした。もう聞きませんから、せめて俺が食べ終わるまでは行かないでください」
「……仕方ない。本当にもう聞くなよ」
「はい」
杉浦は頷いて、残り少ない食事を胃に収めてから桜と一緒に席を立った。
「ところで桜さんはこの後授業あるんですか?」
「ない。俺はこれで終わり」
「そうですか。俺はこの後五限まで暇なんですよ」
「へえ」
そこで杉浦に腕をがっちりと掴まれた。
「ん? 何だよ?」
「当然、付き合ってくれますよね」
「は? 何にだよ」
「俺に付き合ってくれますよね。聞きたいことも色々あるし、時間は三時間もあるし」
「は……?」
しばし首を傾げた桜は杉浦に引かれて歩き出してからようやくその意味を理解した。
「ばっ……お前っ。何言ってるっ」
「じゃあ、行きますよ」
「待てって! おいっ待てよっ。 人を引きずるなっ」
「待ちません。いいから、行きますよ」
「いや、待てよっ」
「あんまり騒ぐとかえって目立ちますよ」
「それは嫌だけどっ、お前に連れてかれる方が嫌だっ」
「へえ、そう」
「な、何だよ?」
「いいですけどね。さ、行きますよ」
「だから待てっ」
「嫌です」
杉浦は笑みを見せて、嫌がる桜を無理矢理に引っ張って大学を後にしたのだった。
――――三時間後。
杉浦は複雑な表情をした桜と別れた後、五限の講義を受けるために大学に戻ってきた。時間に余裕があるのでゆっくりとキャンパスを歩いていると声を背後からかけられた。
「杉浦」
「ああ、相原。お前はもう帰りか?」
「いや、五限がある。お前は?」
「残念ながら俺もだ」
そこで、何かを言いたそうな相原の視線に気付く。
「……何だ?」
顔に何か付いているのだろうかと思ったら、まるで慰められるようにぽんと肩を叩かれた。
「お前、食い物にはされるなよ」
心底同情しているような口調に、顔をしかめる。言われたことについて思い当たる節が全くといってない。
「何の話だ」
問いかけたものの、相原はそれには答えずにさっさと去っていってしまった。
一体なんだったんだ。
相原がいつになく真剣なような気がしたのは気のせいだったのだろうか。
腑に落ちない気持ちで首を傾げた杉浦は、そんなことをしているうちに五限の始まる時間が迫っていることに気付いて慌てて教室へと向かった。
どことなく背筋がぞくりとしたことにはあえて目をつぶりながら。