清想空

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open05.04.12
君がいる 第7話
廊下を歩いていて突然呼びかけられた。
「梶君! 相原君見かけなかった?」
振り向くとそこには背が高めの女の子がいた。
「いや見てないけど、どうしたの?」
「文化祭のことで渡したい書類があるんだけど、見つからないんだよね。クラスの方の打ち合わせがこれからあって、私はもう行かないといけなくて……。梶君なら相原君の居場所知ってると思ったのにー」
見るからに急いでいる女の子を困らせておくのが可哀相で、「渡しといてあげるよ」と声をかけるとぱぁっと表情が明るくなる。
「いいの?」
「いいよ」
「じゃあお願い、します」
手に持っていた書類を渡すと彼女はもう一度礼を言って、身を翻した。それを引き止めるように声をかけると振り向く。
「名前は?」
「あっ、2-6の実行委員、佐々木那都<ささきなつ>です」
「2-6の佐々木さんだね。わかった、渡しておくよ」
「ありがとう!」
そう言って佐々木は走って去っていった。
知らない人から声をかけられるのには慣れた。よく相原と一緒にいるせいで、俺の名前と顔だけが独り歩きしているからだ。
そうやって声をかけてくる人達はたいてい相原のことを探している。特にこの文化祭の時期になると、生徒会を含め文化祭実行委員会まで忙しくなるから、なおの如く相原は捕まりにくくなるのだ。それで皆が皆、俺なら相原の行動を予測できると考えているらしい。
あながち間違いではないが、相原の行動は俺にもわかりかねる部分が多い。実際には向こうから出てくるのを待つか、自力で見つけるしかないのが実情だ。
携帯電話を使えればよいのだけれど、全員が相原の番号を知ってるわけではないから、やっぱり最後は人力に頼るしかない。
「さて、どうするかな」
実は相原への書類を預かったのは佐々木からだけではなく、他の委員からも頼まれていた。五枚一組の書類がしめて十組くらい、手の中で相当の厚みを主張している。
あれだけ急いでいるということは、きっと今日中に渡さなければならないのだろう。
そう考えて、左腕に付けている時計を見ると四時を過ぎるところだった。ホームルームもとっくに終わっている時間だったから、とりあえず一番確率の高い生徒会室に向かうことにした。
 
 
 
「あの日」から三週間が経っていた。
夏休みの最後の一週間は、俺からは相原と連絡を取らなかった。もちろん向こうからも連絡はなかった。
そしてそのまま夏休みが明けて九月に入って教室で再会しても、二人の関係に変化はなかった。なにもかもが今まで通りのまま。まるで何もなかったかのように以前通りの二人のままだ。
親友として話して、一緒に昼飯を食って、登下校を共にして、たまに生徒会の仕事をやらされている。相原は相変わらず女の子をはべらせている。
向こうが特に何も言ってこないから、こちらも何も言わない。
そりゃ、いきなり相原にキスなんかされて驚いたけど、ただそれだけで、別に憎むとか気持ち悪いとかいうことはなかった。何しろ一瞬のことだったし、ちょこっと触れただけだし。
何より相原がなぜあんな行動に出たのかもわからない。動機がわからないので対処法を考えることもできないし、ただのはずみかもしれないと思えばそれを模索するつもりにもならなかった。
だから、まぁ、なんと言うか、犬に噛まれた――いや、実際にはもっと大事なんだろうけど――と思って、水に流してしまうことにしたのだ。
だってそれ以外に俺に何ができるだろう。相原の突拍子もない行動の意味が俺にわかるはずもないのだから。
確かに初めてのキスだったけど、女の子じゃないからそれほど騒ぐようなことじゃない。要は、それをキスと考えなければいいだけで。まだ本当の意味でのキスはしていないと考えておけばいいだけだ。
「梶君!」
窓から差し込むオレンジ色の光を見ながら、ぼうっと廊下を歩いていると大きな声で呼ばれた。予想外に近くから聞こえてきた声に、体がビクリとしてしまった。
「ぼうっとしてどうしたの?」
「あ……三枝さん。ちょっと考えごとしてて」
「そんなに書類持ってどこ行くの?」
「あ、これ、相原に渡してくれって頼まれて。生徒会室に向かってたんですよ」
「ちょうどよかった。俺も生徒会室に行くところなんだ」
そのまま二人で生徒会室まで行くと、予想に反してドアには鍵がかかっていた。
「珍しいな、誰もいないなんて」
そう言いながら三枝が慣れた手つきで、ドアの横についているキーボックスの番号を押して鍵を取り出す。
生徒会室にはそれなりのものが置かれているから、盗難防止のために鍵をかけられるようになっている。もっともキーボックスの暗証番号を知っていればどうにでもできてしまうのだけれど。だから一応代ごとに暗証番号は変えているらしい。
とりあえず三枝にドアを開けてもらって中に入った。
休憩できる場所に入った途端に気が緩んだのか、急に体が重く感じられた。立っているのもだるくてソファに腰掛けた俺に、以前と同じように三枝が紅茶を淹れてくれる。
口に含んだ紅茶が温かくておいしくて、体から無駄な力が抜けた。
「おいしい……」
「そう? ありがとう」
隣に腰掛けて相変わらず柔らかい頬笑みを見せる三枝の返答に気持が和んで、ほっと息をつく。そのままソファの背もたれに身体を預けたところで、俺の意識は予告なくぷつりと途切れた。
 
 
 
カチャンという物音に目を醒ました。
「……?」
あまりの心地良さに半分以上まどろんでいる。
状況が掴めず顔を動かすと衣擦れの音がする。不思議に思ってなぜか斜めになっている体を直そうとしたら、頭上から声がかけられた。
「起きた?」
「!」
声を発するのに伴う振動を身体に感じて跳ね起きた。
「三枝さん! ごめんなさい!」
いつの間にやら三枝の左肩から二の腕にかけて寄り掛かったまま、眠ってしまっていたらしい。
「どれくらい寝てました? あ、相原は来ました?」
身体にかけられていたブレザーを整えて三枝に差し出すと、彼は微笑みながらそれを受け取った。
「大体一時間くらいだよ。まだ誰も来てない」
三枝は読んでいた文庫本を閉じてこちらを向いた。
「顔色が悪いよ。少し無理しているんじゃない?」
「あ……」
温かい指先がすっと俺の頬を撫でて離れていく。
三枝の言うことは見事に当たっていた。
「あと二週間もしたら中間テストだから」
なんだかいたずらを見つかって叱られるような気分だ。別に悪いことをしているわけではないけれど。
「梶君の家の事情に余計な口を挟むつもりはないけど、ある程度知ってしまっているから言わせてもらうよ。君は少しがんばり過ぎだ。テストに向けて勉強するのはいいことではあるけど、君はお父さんや弟さんの面倒も見ているんだから、自分の体も大事にしなくてはだめだ」
責める訳でもない穏やかな口調が心に染みる。
三枝の言う通りなのだ。学校から帰って洗濯物の片づけをしたら、次は夕食の準備。夕飯の片付けが終わったら、智也と俺が交代で風呂に入って先に洗濯を済ませてしまう。
それから帰りの遅い父親を勉強をしながら待つ。そして父親の夕飯の片付けを済ませてようやく自由の身となる。
朝は五時半に起きて、父親関係のものを洗濯して干して、智也と父親の弁当と全員分の朝食を作る。早く家を出る父親を見送ってから智也と二人で朝食をとって、そうしてようやく登校という流れた。
そんな慌ただしい一日を繰り返している中でテストのための勉強時間を増やすとなると、どうしても睡眠時間を削るしかなくて。そういえばここのところ夜遅くまで勉強して、朝体がだるかったりした。
「その顔は思い当たる節があるんだろう」
呆れたような声とともにため息をつかれて、なんだかいたたまれなくなる。こんな風に誰かに叱られるのは随分久しぶりな気がした。その相手が三枝だというのはなんだか不思議な気もするけれど。
「自分を大切にしなさい。それからもっと周りを頼りなさい。何か力になれるかもしれないんだから。各務<かがみ>だって俺だって君に頼られて嫌な気はしないよ」
「……はい」
少し沈んだ声で返すと、三枝は笑って俺の髪をくしゃくしゃに撫でた。まるで猫の子にするような仕草だ。
「よし」
その笑顔にほっとする。叱られていたときの緊張が一気に解けるような気がした。
「ところで三枝さん」
「ん?」
「今夏服なのに、何で長袖のブレザー持ってるんですか?」
「ああ、これ?」
三枝がさっき返したブレザーを見るのに頷くと、
「夏は店とか入るとクーラーが効き過ぎることがあって、体が冷えるから持ち歩くようにしているんだ」
という答えが返ってきた。
「なるほど。……さっきはありがとうございました」
「この部屋にクーラー入れていたからね。文化祭で忙しい時期に風邪をひくと大変だから」
にこりと笑う三枝は安心感を与えてくれる。とても心地がよくて、このままずっと一緒にいたくなるような、そんな気持ちにさせる。
たぶん三枝が年上で、以前からの顔見知りだということから来ているのだろう。
三枝との間では、お互いに心地良い距離感で接することができているような気がする。近すぎず遠すぎず、過干渉でも無関心でもない、ちょうどいい立ち位置にいるとでも言えばいいのだろうか。
変な言い方をすれば温かく見守られているような心地がするのだ。
俺の身の回りにいる年上といえばもちろん父親になるわけだけれど、父親は仕事に忙しい。仕事の邪魔はしたくないし、今まで男手一つで俺と智也を育ててくれた父親に迷惑はかけたくない。そう思えばこそ、俺は父親にはあまり相談事を持ちこんだことがなかった。
いつも自分で考えられるだけの可能性を考えて答えを出している。
そんな俺の前に三枝みたいな人がいれば、さすがに頼りたくなってしまう。ここぞというタイミングで手を差し伸べて甘えさせてくれるからなおさらだった。
きっと俺にとって必要なのはこういう人なのだろうと、その時の俺は漠然と思っていた。